【訃報】 野口 晏弘 様 2016 11/02 訃報 2016年11月2日 お名前 野口 晏弘(ノグチ ヤスヒロ) ご逝去日 2016年10月27日 享年 86歳 お通夜 告別式 会場 名称 住所 電話番号 リンク 備考 訃報 2016秋季ゴルフコンペ報告 碁酔会湯河原碁会 関連記事 【訃報】濱野 真由美 様 2025年12月19日 【訃報】高瀬 英克 様 2025年12月18日 【訃報】山内 祥生 様 2025年12月6日 【訃報】富樫 輝義 様 2025年11月19日 【訃報】三橋 慎一 様 2025年9月19日 【訃報】楠原 努 様 2025年9月9日 【訃報】藤松 伸夫 様 2025年9月6日 【訃報】森田 正則 様 2025年8月26日 コメント コメント一覧 (3件) 研究所、開発、JPCでは大変お世話になりました。日本での新薬の開発、申請、承認の道を拓いてくださった最初のドクターとして、ファイザーの今の繁栄の礎を築いてくださいました。本当にありがとうございました。数年前から病で小金井から息子さんのお住いの名古屋に移られたと聞いておりましたが、お別れの挨拶もできず申し訳ありません。ご冥福をお祈りいたします。 下岡釿雄 返信 私が入社した当時、野口さんは薬理研究所長をされておられ、学生気分の抜けきらない私などはずいぶんとご迷惑をおかけしました。お詫びを申し上げる機会がなかったことを誠に申し訳なく思います。当時、大型新薬の登録申請が困難な状況が続き、ボーナスを渡されるたびに野口所長から「営業の方々等の努力でこのボーナスをいただけるのだ、我々は一刻も早く新薬登録を果たして会社に貢献してはじめてボーナスをもらう資格ができるのだ」と言うような趣旨の訓示を何度も何度も聞かされ、その通りだと納得したことを思い出します。また、登録申請書の作成では文章は「春は曙」というように短い文で分外の意味や情景が浮かぶようなのが良いなどと、と文章の作成についてもずいぶんとご指導ご鞭撻頂いたことが思いだされます。新薬開発業務の道筋を切り開く当初は責任者として大変なご苦労があったことと推察致します、そのおかげで今のファイザー株式会社や私共の生活があるのではないでしょうか、本当にありがとうございました。 榎垣 一憲 返信 1968年名古屋工場内に薬理研究所が創設されることになり、建設工事の前半のプロジェクト・マネージャーを務めさせていたこともあり、野口常務とは研究開発の業務を通して、ご縁が深くいろいろとご指導頂きました。1989年私が定年退職をする時の送別会では、厚情あふれる送別の辞を頂戴しました。公正で気取らない上司でございました。思い出は数多くあります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 平井輝生、 返信 eno9021@wk9.so-net.ne.jp へ返信する コメントをキャンセルコメント ※ 名前 ※ メール ※ サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 Δ
研究所、開発、JPCでは大変お世話になりました。日本での新薬の開発、申請、承認の道を拓いてくださった最初のドクターとして、ファイザーの今の繁栄の礎を築いてくださいました。本当にありがとうございました。数年前から病で小金井から息子さんのお住いの名古屋に移られたと聞いておりましたが、お別れの挨拶もできず申し訳ありません。ご冥福をお祈りいたします。 下岡釿雄 返信
私が入社した当時、野口さんは薬理研究所長をされておられ、学生気分の抜けきらない私などはずいぶんとご迷惑をおかけしました。お詫びを申し上げる機会がなかったことを誠に申し訳なく思います。当時、大型新薬の登録申請が困難な状況が続き、ボーナスを渡されるたびに野口所長から「営業の方々等の努力でこのボーナスをいただけるのだ、我々は一刻も早く新薬登録を果たして会社に貢献してはじめてボーナスをもらう資格ができるのだ」と言うような趣旨の訓示を何度も何度も聞かされ、その通りだと納得したことを思い出します。また、登録申請書の作成では文章は「春は曙」というように短い文で分外の意味や情景が浮かぶようなのが良いなどと、と文章の作成についてもずいぶんとご指導ご鞭撻頂いたことが思いだされます。新薬開発業務の道筋を切り開く当初は責任者として大変なご苦労があったことと推察致します、そのおかげで今のファイザー株式会社や私共の生活があるのではないでしょうか、本当にありがとうございました。 榎垣 一憲 返信
1968年名古屋工場内に薬理研究所が創設されることになり、建設工事の前半のプロジェクト・マネージャーを務めさせていたこともあり、野口常務とは研究開発の業務を通して、ご縁が深くいろいろとご指導頂きました。1989年私が定年退職をする時の送別会では、厚情あふれる送別の辞を頂戴しました。公正で気取らない上司でございました。思い出は数多くあります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 平井輝生、 返信
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研究所、開発、JPCでは大変お世話になりました。日本での新薬の開発、申請、承認の道を拓いてくださった最初のドクターとして、ファイザーの今の繁栄の礎を築いてくださいました。本当にありがとうございました。数年前から病で小金井から息子さんのお住いの名古屋に移られたと聞いておりましたが、お別れの挨拶もできず申し訳ありません。ご冥福をお祈りいたします。
下岡釿雄
私が入社した当時、野口さんは薬理研究所長をされておられ、学生気分の抜けきらない私などはずいぶんとご迷惑をおかけしました。お詫びを申し上げる機会がなかったことを誠に申し訳なく思います。当時、大型新薬の登録申請が困難な状況が続き、ボーナスを渡されるたびに野口所長から「営業の方々等の努力でこのボーナスをいただけるのだ、我々は一刻も早く新薬登録を果たして会社に貢献してはじめてボーナスをもらう資格ができるのだ」と言うような趣旨の訓示を何度も何度も聞かされ、その通りだと納得したことを思い出します。また、登録申請書の作成では文章は「春は曙」というように短い文で分外の意味や情景が浮かぶようなのが良いなどと、と文章の作成についてもずいぶんとご指導ご鞭撻頂いたことが思いだされます。新薬開発業務の道筋を切り開く当初は責任者として大変なご苦労があったことと推察致します、そのおかげで今のファイザー株式会社や私共の生活があるのではないでしょうか、本当にありがとうございました。
榎垣 一憲
1968年名古屋工場内に薬理研究所が創設されることになり、建設工事の前半のプロジェクト・マネージャーを務めさせていたこともあり、野口常務とは研究開発の業務を通して、ご縁が深くいろいろとご指導頂きました。1989年私が定年退職をする時の送別会では、厚情あふれる送別の辞を頂戴しました。公正で気取らない上司でございました。思い出は数多くあります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 平井輝生、