ポルトガルの道巡礼(5)
(レドンデラ~サンティアゴ・デ・コンポステーラ)86km
2017年9月24日~28日
(フィステーラ、ムシーア)9月29日
操作方法:写真は拡大出来ます、本文へ戻るときはブラウザーの戻るボタン(←)を押す
操作:MAPから本文へ戻るときは上のMAPタグのXを押す
レドンデラのアルベルゲで6時前に起きて、いつものように足のすね・ふくらはぎと足首にサポーターを着用。数年前に山道で転んで右足の脛を岩に強くぶつけて、それ以来2,3km歩くと右足が痺れてくるのだ。サポーターを着用すると痺れを防げる。それと、足にまめができるのを防ぐため足の甲から裏にぐるりとテープを巻く。ザックに寝袋やら何やら詰め込んで6時半ごろ出発。
町なかは街灯が煌々と灯っているが、住宅がなくなると真っ暗闇で、懐中電灯が頼りだ。だが、若い女性ひとりの巡礼もよく見かける。巡礼路は安全だからだ。
レドンデラ市街を通り抜けて標高153mのアルト・ダ・ロンバに向けて登り坂となった。まだ薄暗いなか、沢山のホタテ貝が吊り下げられていた。通過する巡礼者が掛けたもので、名前と日付が書かれた貝もあった。
「ラバンデイラの泉」と刻まれている。今は使われていない水飲み場と共同洗濯場。スペインに入ってもよく共同洗濯場を見かけたがほとんどが朽ち果てていた。
アルカデのバルで昼食。クロワッサンとオレンジジュース(スモ・ナトゥラル・デ・ナランハと注文するとオレンジを搾ってくれた。)がいつもの簡単なメニュー。
大勢の巡礼者に交じってサンパイオ橋を通りベルドゥゴ川を渡った。長さ400mで1795年に造られた。ベルドゥゴ川はすぐにビーゴ湾に注いでいる。
ポンテベドラのエリアに近づくとサンタ・マルタ礼拝堂があった。1617年と刻まれていた。看板にガリシア語とスペイン語で説明があった。
Map:サンタ・マルタ礼拝堂
ポンテベドラに近づくにつれて空は曇ってきたが、降り出す前にアルベルゲに入った。
アルベルゲは午後1時にオープンしたが、チェックインするのに外まで行列して待った。
3時半ごろアルベルゲを出て町の中心街へ行った。その時には門の扉に「満室」のプレートが下がっていた。
アルベルゲの隣にRENFE(スペイン国鉄)のポンテベドラ駅があった。列車は頻繁に発着していた。プラットホームの様子を見ていたら、乗客が手荷物をX線検査機に通してプラットホームへ入場しているではないか。
1.5km歩いて中心街へ向かう途中で雨が降ってきた。カペラ・ダス・ペレグリナ(巡礼者礼拝堂)に入った。18世紀の建物だそうで、建物の床面は貝の形をしていると後で知った。祭壇に聖母マリアが巡礼者に扮した像が光り輝いていた。
中心街を通り抜けるとレレズ川にブルゴ橋が架かっている。橋桁にサンティアゴ巡礼のシンボルであるホタテ貝の飾りがある。
ポンテベドラのアルベルゲを6時半過ぎに出発した。カペラ・ダス・ペレグリナはもう開いていたので、入って礼拝した。

ポンテベドラ以降、歩いている巡礼者の数が一段と増えて、常に前後に巡礼者の姿が目に入った。
サン・カエタノ付近の車道。今まで歩いてきたポルトガルの道(巡礼路)で最も危険な個所に思えた。さすがに、車はスピードを抑えて通過する。
サン・アマロでうっかりしてメソン・ドン・プルポ(茹蛸料理店)の前を通り過ぎてしまった。大勢の人が休んでいるようなので、別のところで休憩しようと思いつつ通り越したので、PULPO(蛸)の大きな字が目に入らなかったのだ。ガリシア名物のプルポ・ア・フェイラ(茹蛸料理)を食するのを楽しみにしていたのだが。この後、パドロンでも、サンティアゴでも食べ損ねた。
ホタテ貝と「ローマ街道19」の道標。いずれも、道標自体は古いものではない。
道標に「サンティアゴまで49.995km」の表示。ガリシアではどの道標にも1メートル単位の距離で表示されている。もっと大雑把な数字でも構わないのに。
カルダス・デ・レイスの町に午後3時近くに着いた。歩いてきたカレテラ(国道)でウミア川を渡り、左に曲がりサルガド通り、レアル通りを進み、ウミア川の支流ベルマーニャ川に架かるローマ橋を渡った。アルベルゲはこの橋の左側にあった。アルベルゲの建物は古く、共用スペースもなく居心地がよくなかった。写真のひとつは、泊まった部屋の窓から撮ったもの。
セント・トーマス教会の広場のテーブルでビールを飲む。カルダス・デ・レイスではビールを頼むとポテトチップスがつまみとして添えられてきた。バルで極めて簡単な夕食だが、小生のお気に入りのピミエントス・デ・パドロン。
教会前の広場で子供たちが遊んでいた。スペインでは、町なかの小さな公園や広場で親が見守るなか、子供たちが遊んでいる光景をよく見かけた。
Map:カルダス・デ・レイス
Map:カルダス・デ・レイスのアルベルゲ
Map:セント・トーマス教会
カルダス・デ・レイスのアルベルゲから7時20分ごろ歩き始めて、町なかを進んだ。この後、真っ暗闇の林の中を懐中電灯頼りに歩いた。
道標にサンティアゴまで35.039km。矢印が黄色でなく青みがかっているではないか。
ファティマへの矢印は青色なのだ。
旅立つ前から、この日はパドロンではなく、手前で巡礼路を逸れてエルボンに向かいそこで修道院に泊まる計画を立てていた。ポンテセクレスの分岐点で数名の巡礼者が立ち止まった。ドイツ人女性のアングレットがエルボンの修道院に泊まりたいと言い、小生と道連れとなった。彼女は南アフリカ人男性と連れ立ってきたが、ここで別れるので記念写真を撮ってもらっていた。彼女とは前日バルでの休憩で顔を合わせていた。南アフリカ男性ともトゥイを出発した朝、行き会い写真を撮ってあげた。その時南アフリカ人と知ったが、名前を聞いていなかった。エルボンへ向けて彼女と話しながら歩いたが、すぐに話が尽きてしまった。それでも、1kmほどの道を快いそよ風を受けて一緒に歩いた。ウジャ川を渡るとき美しい川面だったので、川を背景にお互いのカメラで写真を取り合った。
森に囲まれた静かなエルボン修道院に午後1時ごろ着いた。アルベルゲがオープンするまで、巡礼者は各々思い思いの場所で待った。
アルベルゲのオープンを待っていたイギリス人のアレックスが、1km離れたところにあるバルに誘ってくれた。アレックスはマレーシアで生まれて、5歳のときに両親に連れられてイギリスに移住したそうだ。30才前後に見えた。彼は4年前に日本を訪れ、熊野古道を歩いたそうだ。帰国後、交わしたメールによると彼はスーパーマーケットで働いているようだ。一緒にビールを飲んだ。彼が、おつまみにピミエントス・デ・パドロンを頼んでくれた。
ピミエントス・デ・パドロンは、しし唐に似たピーマンの一種で炒めて塩を振りかけたもの。
皿に盛られたうち2,3粒がピリリと辛い仕掛けになっている。12年前初めてのサンティアゴ巡礼の旅でガリシアに入って食べて以来小生の好物となった。ガリシアを歩いているとき、何度かレストランで食べたが、その都度しし唐っぽいもの、ピーマンっぽいもの、違っていて、味も微妙に違っていた。ガリシアにピミエントスの種がもちこまれたのは17世紀。メキシコ・タバスコ州からパドロン教区のエルボン修道院のフランシスコ会修道士たちによって持ち込まれたそうだ。ピミエントス・デ・パドロンはガリシア以外の産地もあり、それらとガリシア産を区別するため原産地呼称をピミエントス・デ・エルボンとし、それが認められたそうだ。何かややこしい話だ。(webページを参照した。)
午後4時ごろアルベルゲがオープンした。ガリシア巡礼協会のボランティアによって運営されている。受付のデスクにスペイン語、英語、ドイツ語の時間表が張られていた。「18:00修道院見学、20:00ミサ、20:30夕食、22:30休息、アルベルゲ戸締り、7:00起床、朝食、8:00出発、よい旅路を」20ユーロを受付の募金箱に入れた。
右から3人目がボランティアの案内人。案内人のスペイン語による説明を右から2人目の女性(巡礼者のひとり)が英語に通訳してくれた。ところが、小生はスペイン語も英語も一言も聞き取れず、ちんぷんかんぷんだった。(Webページに)この修道院は1396年に創建されたとあった。
礼拝堂でのミサに出席。四国遍路で札所参拝や宿坊での勤行の時と同じように、生かされて元気に巡礼できることに感謝して祈った。
この日泊まった12人の巡礼者がテーブルに着き夕食を摂った。皆揃ってワインで乾杯をした。質素だがコース料理が出された。右手前がアングレット、右手前から4番目がアレックス。
まだ真っ暗な朝8時前にエルボン修道院を出て、2km歩き、夜が明けたパドロンの町に着いた。サンティアゴ教会に入ると「ヤコブ伝説」に纏わる像や絵画が見られた。サール川の橋向の袂にある塔を持った建物がサンティアゴ教会。こんな目立たぬ建物だったので、教会に焦点を絞った写真を撮り損ねた。橋のこちら側にカルメの泉の背面。
サール川の橋のサンティアゴ教会側からの眺め。真向いにカルメ修道院。外観は立派だが朽ちている。橋の右にカルメの泉。修道院の裏にサンティアゴの丘がある。
カルメの泉。上:異教徒ルパ女王の改宗と洗礼の場面。中:サンティアゴの遺体を乗せた舟が石に係留されている場面。下:マリア像。女性が祭壇を清掃しているらしい。
サンティアゴの丘への道の入り口を探し当てて登って行った。こんなに整備された道だから、かつては大勢の人がサンティアゴの丘を訪れていたにちがいない。
道をどんどん登り、更に階段を登りきると広場に出た。その先に礼拝堂があり、その奥に岩が積まれていた。岩の上でヤコブがスペインで初めてキリストの教えを説いたといわれる。
周囲は人っ子ひとりも見かけない静寂につつまれていた。巡礼のガイドブックによるとヤコブの伝説が保たれているところだが、ほとんど訪れる人がいない。
羊の散歩?(地元の人が羊を数頭連れて歩いている光景を何度か見かけた。)を振り返って見る巡礼者
エスクラビトゥデ教会に立ち寄った。この教会は16世紀に“聖なる泉”の上に建てられた。
ひとつの伝説がある。「むくみの治療を求めてサンティアゴ巡礼をしていた男が、“聖なる泉”で立ち止まり、その水を飲んだところ、医療を受けずに72時間後に治癒した。元気になった男は叫んだ。{マリア様、ありがとう。悪魔の束縛から私を解放してくれた。}」(webページから引用)
最後までぶどう棚が付きまとった。小生がぶどう棚に付きまとってきた、と言うべきか。
ぶどう棚を通り過ぎたところで、思いがけなくチェコ人のヤナとスロバキア人のイバナに出会った。アルベルガリア・ア・ノバのアルベルゲで話を交わして以来2週間振りの再会だった。この日のアルベルゲで一緒になったが、言葉を掛ける機会を逸してしまい残念だった。
サンティアゴまで14.5kmのテオのアルベルゲに泊まった。翌日、サンティアゴのカテドラルで行われる正午からのミサに間に合うように、夜明け前の6時半ごろアルベルゲを出発した。サンティアゴまで近いので皆アルベルゲでゆっくりしていた。道が林のなかに入ると真っ暗闇で懐中電灯が頼りだ。他の巡礼者とも出会わない。8時過ぎてやっと明るくなってきた。

北方にサンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルの三つの塔が見えてきた。ここでの標識は、まだ、サンティアゴまで6.660kmだった。

11時半ごろサンティアゴ・カテドラル前のオブラドイロ広場に到着した。広場の真ん中辺りで傍にいた女性に小生のカメラを渡し、カテドラルをバックに小生の写真を撮ってもらった。その時、エルボン修道院まで道連れとなったアングレアが目の前に現れ、ハグしてきた。こうしてお互いの巡礼成就を喜び合った。カテドラルをバックに二人の写真も撮ってもらった。カテドラルは2013年から修復工事が行われてきた。閉鎖しないで工事を進めているので、長期間を要して2020年7月完了の見込み。アングレアと別れて、近くの荷物一時預かり所に2ユーロ支払ってザックを預けた。そして、カテドラルに入って大勢の観光客に混じって巡礼者のためのミサに参加した。
聖書の朗読とかシスターの歌う聖歌とか司祭の説教でミサは進められて、その雰囲気を感じ取るのみだが、1時間近くが過ぎた。ミサが終わって隣同士で握手を交わした。そして、カトリック信者には聖体拝領が行われた。信者はホスチア(パン)を持っている司祭に近づき、ホスチアを手のひらで貰い口に運んだ。聖体拝領に見とれて、回ってきた人に献金をし損なった。
その後、ボタフメイロ(大香炉)の儀式が行われた。20mの高さから吊るされた巨大香炉を8人の男たちが引っ張り、シスターのソプラノの歌声にパイプオルガンの演奏で、カテドラル内一杯に大香炉が左右に振られた。ボタフメイロの儀式に臨むのは今回で5回目だが、感動を新たにした。2018年は、修復工事のため数か月ボタフメイロの儀式は行われないそうだ。
Map:サンティアゴ・デ・コンポステーラ・カテドラル
Map:オブラドイロ広場
カテドラルを後にして巡礼オフィスに向かう途次、見覚えのある一組の男女と行き会い、顔を合わせた途端、彼我双方からcongratulation!と言い合って巡礼成就を共に祝った。確かポンテベドラのアルベルゲに泊まった折、共用スペースでお互いに憩っていたのだ。男の人は小生と同じ年格好と見たが、女の人は奥さんにしては随分若く見え、娘さんかも知れないと思った。その時言葉を交わさなかったが、そんなことで記憶に残った。彼らはフランス人で、これからフィステーラに向けて歩いて行くと言った。


巡礼オフィスはカテドラルの南側から北側に移転していた。午後1時半ごろオフィスを訪れたが巡礼者を応対する大部屋の入口から廊下に長蛇の列がつくられ、列の最後尾は中庭に出ていた。巡礼で忍耐力が鍛えられたのか、長い待ち時間に苛立つような巡礼者はいなかった。2時間近く待たされて、やっと大部屋に呼び込まれた。クレデンシャル(巡礼手帳)を提示して、コンポステーラ(巡礼証明書)が渡された。カウンターには確か20人の巡礼者と同時に対面できるように番号が付けられていたが、現に巡礼者と対面してたのはたったの5つのカウンターだった。小生に3,4分時間を割いたので多分150人ほどの列だったのだ。こうして苦労して入手したコンポステーラ、紙ぺらではあるものの有難く、クレデンシャル、四国遍路の納経帳と共に小生の棺桶に納めてもらっても悪くないなと思った。
2005年に泊まったセミナリオ・メノール(神学校)のアルベルゲに泊まりたかったが、
午後3時半ごろになっていたので、アルベルゲに空きベッドは無いだろうと諦めた。そこで2010年にサンティアゴに来た時泊まったこじんまりしたペンシオンを訪れたが、満室だった。だが、オスタル・ラ・サレを紹介してくれて、直ぐその足で赴いて、一泊50ユーロでチェックインした。

黄昏のカテドラルを見ようと、オブラドイロ広場を訪れた。そして、カテドラルの東側のプラテリアス広場へ回ると、大勢の観客に囲まれてブラスバンドの演奏会が開かれていた。最後に、「ガイダ」と呼ばれるバグパイプ奏者が3人加わって聴き慣れない多分ガリシアのケルト音楽が3曲演奏された。
翌朝、サンティアゴから出発した日帰り観光バスに乗り、フィステーラ、ムシーアを訪れた。
大西洋に面した海岸は、死の海岸(ガリシア語でCosta da Morte、スペイン語でLa Costa de la Muerte)と呼ばれていることを、今回の旅で知った。それは、岩だらけの海岸で数多くの船が難破してきたからだ。(ウイキペディアより)
朝方サンティアゴ市街は雨模様だったが、バスの走行中青空が見えてきた。だが、フィステーラに近づくと、一転して濃霧に覆われていた。2005年に「フランス人の道」をサンティアゴまで踏破した後フィステーラまで足を延ばし、大西洋に沈む夕日を心行くまで眺めた。今回まったく眺望を得られなかったので、大西洋に沈む夕日がフィステーラの忘れ得ぬ思い出のままとなった。
焚火の跡。2005年に訪れたときは、岬のあちこちで巡礼者が着ていた衣服を燃やしていたものだ。2010年に環境問題(火事、ごみ、景観破壊)から焚火は禁止されたそうだ。
雨雲が垂れ込めていたが視界が開けたムシーアに着いた。
舟の聖母教会(Santuario da virxe da Barca)。2013年のクリスマスの日にこの教会に雷が落ちて火災に遭った。その後再建されたので新しい建物なのだ。海面に近くに建っているので2014年1月に高波にも襲われている。
大きなモニュメントがあった。アルベルト・バヌエロスという人の制作した彫刻で、「傷跡」と題されている。「傷跡」とは、2002年11月13日タンカー・プレスティージ号がムシーア海岸の沖で真っ二つに破壊されて、約7000トンの石油が流出し、スペイン、フランス、ポルトガルの海岸を汚染した。2017年11月までに保険会社には1億ドルの罰金が科されているそうだ。(ウイキペディアより)
モニュメントのたもとにある帆立貝の標識にはフィステーラへ31.329kmと。
眼の前に荒波が迫ってきてムシーアがまさに地の果て(フィステーラ)に思われた。荒海に向かって殊勝なことに若い女性が座禅を組んでいた。
【 参 考 】
「サンティアゴ巡礼の旅」を目指している方へ
私が最初にサンティアゴ巡礼の旅を思い立ってから5年目で実現しました。その後、何度かサンティアゴ巡礼の旅を重ねて、巡礼路の毎日の行程の略図、日程、アルベルゲなど宿泊先リストを準備し、長旅となる心構えさえできれば、すぐ旅立てるようになりました。
インターネットのWebページからサンティアゴ巡礼に関する様々な情報を得られますが、NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会のホームページhttp://www.camino-de-santiago.jp/ を見れば、ほぼすべての情報を得ることができます。
サンティアゴで生活している女性の運営しているブログOTRA SPAIN(オトラ スペイン)https://otraspain.com/ には、サンティアゴ巡礼路の情報もあり、私はよく利用させていただきました。
[ (サンティアゴ巡礼 camino de santiago camino frances camino del norte
camino portugues など)→ 動画 ] で検索すると、投稿されたサンティアゴ巡礼の動画(スライド形式の静止画も含む)が出てきます。投稿された数限りない動画に巧拙あるので、気に入った動画のみ選んで見てください。そして、どのように巡礼の旅をしているか観察できるでしょう。
スペインなんでも情報リアルタイム!! http://www.spainnews.com からは、スペインの現地発信情報が得られます。
多くの巡礼者がスマホのgoogle mapを見て歩いていたようです。ガラケーを持つ私は、スマホを持つ巡礼者が羨ましかった。
サンチャゴ巡礼の旅を目指している方で質問などあれば、NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会に尋ねることができます。
大袈裟な言い方ですが、初志を貫徹されるよう祈ります。
大島米次郎






























