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ポルトガルの道巡礼(4)
(アルコス~レドンデラ)122km
2017年9月18日~23日
(アルコス~レドンデラ)122km
2017年9月18日~23日
この日、早朝にアルコスを立ち、1時間ほど歩いて夜が明けたばかりのサォン・ペドロ・デ・ラテスに着いた。
サォン・ペドロ・デ・ラテス入口に据えられた派手な色の案内板。小生はカミノ・サンティアゴ(サンティアゴまで200km)を進むが、もうひとつのカミノ・ダ・コスタ(海岸沿いのルート、220km)もあるのだ。 操作:MAPから本文へ戻るときは上のMAPタグのXを押す
ペドラ・フラドのカフェに入って休憩した。ドイツ人ペアのマティアスとレナ、それとイタリア人のマリオがテーブルでビールを飲んでいた。そこに小生も加わりビールを飲んだ。彼らはカフェを出ると、どんどん先に去っていった。その後、2時間も経たないうちに彼らがカフェでビールを飲んでいるのを見つけて、付き合ってしまった。バルセロスを過ぎてフエンテ・デ・フェレイリーニャ辺りのカフェで、彼らを見つけてまた一緒にビールを飲んだ。この日、29km歩いた間のささやかな出来事だ。
バルセリーニョスからカーヴァド川を渡りバルセロスの町に入った。ゴシック様式の橋は14世紀にできた。橋のたもとにあるガロ(雄鶏)のキャラクターはポルトガルの伝説にちなんだものだ。伝説とは、昔々バルセロスで無実の罪を着せられた巡礼者が絞首刑を言い渡され、刑の執行のまえに、「私の無実を証明するために、あなたが食べている鶏の丸焼きが鳴き叫ぶだろう。」と裁判官たちに言ったが、誰にも信じてもらえなかった。しかし、執行の直前その雄鶏が高々と鳴き叫び無実が証明され、めでたく釈放された。(以上、Webページから引用)バルセロスの雄鶏の置物はポルトガルの代表的なお土産のひとつ。バルセロスのレプブリカ広場で、毎週木曜日に大きな露天市が開かれているそうだ。この日は月曜で広場周辺は活気がなかったが、露天市のために据えられた飾り物が見られた。
この日、ポルテラ・デ・タメルのアルベルゲへ午後5時半ごろに入った。町営のアルベルゲで5ユーロ払った。二段ベッドの上段があてがわれた。このように柵があるから、安心して熟睡できる。(以前に、柵のない上段ベッドをあてがわれたとき、夜中に無意識に寝返りを打ったならば、ベッドから滑り落ちるのではないかとおちおち眠れなかったことがあった。)
ぶどうを収穫している情景を3か所で目撃した。巡礼の道沿いにぶどう棚がひっきりなしにでてくるので、つい失敬して賞味してしまった。地元の人たちが収穫している姿を見ると、しみったれたことはやめようと思うのだが、サンティアゴ到着まで、何回か手が伸びてしまった。
プラタナスの木の間に31のアーチを持つリマ橋が見えてきた。幅4m、長さ300mの橋。ローマ時代に架けられ、14世紀ごろ大改修がされたようだ。この橋の名前がそのまま町の名前ポンテ・デ・リマになっている。川岸と河川敷にいくつかのオブジェがあった。ローマ兵士のオブジェ。Webページに解説があった。ポンテ・デ・リマの伝説:「リマ橋を渡れば過去をすべて忘れる。」の兵士像。先頭の兵士は人形だが、後の兵士はただの板なのだ。それはともかく、あっさりした伝説だが小生はすんなりと受け入れられる。
午後4時ごろリマ橋を渡るとアルベルゲに着いた。巡礼者が行列をなして並び、チェックインの手続きを待っていた。前日に3回も顔を合わせてビールを飲み合ったイタリア人のマリオと出くわした。彼とリマ橋を渡り返して川岸の広場のテーブルでビールを飲んだ。ドイツ人ペアとは、あまりにも巡礼の道で道草を喰って進み具合が遅いので別れたと言う。
彼は、32歳、ナポリで生まれ育った生粋のナポリっ子だが、今はローマに住んでいる。描いた風刺漫画が毎日、全国紙に載せられているそうだ。今の仕事に満足していると言う。彼の話を半信半疑で聞いていたが、帰国後、彼の名前mario natangeloをインターネットで検索したら、彼の情報がわんさか出てきた。彼の描いた風刺画もインターネット上で毎日更新してアップされている。どうやら、イタリアでは新進気鋭の風刺漫画家のようだ。Amazonにも彼の漫画本が出品されていたので、早速購入した。届いた本は会話文の字数が多いので、悲しいことにイタリア語が読めないと理解できない。マリオは自分の本が日本で入手できるなんて信じられない、受け取ったその本の写真を送ってくれ、とメールしてきた。何時になるか分からないが、新しい漫画本を出版したら小生に送ると言ってきた。その時までにイタリア語が少しは読めるように勉強を始めると、語学が不得手であることを顧みずに言ってしまった。ああ、77の手習いだ。
彼は、32歳、ナポリで生まれ育った生粋のナポリっ子だが、今はローマに住んでいる。描いた風刺漫画が毎日、全国紙に載せられているそうだ。今の仕事に満足していると言う。彼の話を半信半疑で聞いていたが、帰国後、彼の名前mario natangeloをインターネットで検索したら、彼の情報がわんさか出てきた。彼の描いた風刺画もインターネット上で毎日更新してアップされている。どうやら、イタリアでは新進気鋭の風刺漫画家のようだ。Amazonにも彼の漫画本が出品されていたので、早速購入した。届いた本は会話文の字数が多いので、悲しいことにイタリア語が読めないと理解できない。マリオは自分の本が日本で入手できるなんて信じられない、受け取ったその本の写真を送ってくれ、とメールしてきた。何時になるか分からないが、新しい漫画本を出版したら小生に送ると言ってきた。その時までにイタリア語が少しは読めるように勉強を始めると、語学が不得手であることを顧みずに言ってしまった。ああ、77の手習いだ。
松林の中に立つ十字架は、「フランス人の十字架」または「死者の十字架」と呼ばれる。ナポレオンの軍隊がゲリラに急襲されて多くの兵士が斃れたと言う。その鎮魂の碑である。兵士の大半はスペインなどから徴集されたそうだ。それでも、「フランス人の十字架」と呼ぶ矛盾。何故か小石を載せると幸運が訪れると言われている。それで、小石を載せる人がいるのだ。
下り道でブラジル人グループと出会った。二人の女性は日系で、両親が日本から移住したそうだ。ひとりの女性が、両親が亡くなって以後は日本語を話す機会があまりなくて下手だと言いながら、日本語で話しかけてきた。ポルトのカンパーニャ駅で2人の日本人と会って言葉を交わして以来、初めて日本語を聞いた。学校の先生をリタイアしたばかりと言う。両親はどこの出身かと聞いたら、愛知県だと言う。数年前に日本を訪れたそうだ。ブラジルで生まれ育ったのだから当然だが、日本への望郷の念などは無いようだ。

午後1時半ごろルビアエンスのアルベルゲに到着した。巡礼者は列をなして並んでチェックインの手続きを待った。このアルベルゲは最近まで学校の校舎だったそうだ。洗濯機が4、5台あったので皆順番を待って洗濯をし、庭に干した。庭はまさに満艦飾だった。隣のカフェで夕食をした。
午後1時過ぎにヴァレンサに着いた。ヴァレンサはポルトガルとスペインとの国境をなすミーニョ川畔の丘の上にあり、古い砦が17世紀に改修された要塞都市だ。
ヴァレンサ要塞内の街路を走行する遊覧自動車。遊覧自動車は、スペインのトゥイへも乗り入れている。つまり、遊覧自動車は国際橋を渡ってヴァレンサとトゥイを行き来しているのだ。トゥイの町でも同じ遊覧自動車が走行していた。ヴァレンサ要塞から望むミーニョ川に架かる約300mの橋。名前を国際橋と言う。エッフェルの設計した鉄製の橋で1884年に完成した。上は鉄道、下は道路という二層づくり。
橋上がポルトガルとスペインの国境となる。

ミーニョ川畔から高台に登って、トゥイのアルベルゲにチェックインした後、サンタ・マリア・カテドラルに入って見学した。1120年に建てられた。西側の門(ポルターダ)はイベリア半島で最初のゴシック建築だそうだ。
午前7時前にアルベルゲを出発。ポルトガルとスペインは1時間の時間差があり、昨夜時計の針を1時間進めていた。8時を過ぎないと夜が明けない。トゥイから巡礼者の数が一段と多くなり、早目にアルベルゲに到着しないと満室で泊まれなくなるおそれがある。それで、巡礼者は7時ごろまでには出発するのだ。
二日前に出会ったブラジル人のグループに再会した。日系ブラジル人女性のひとりの親が愛知県出身と言ったので、愛知県の何処と問うと、考え込んでしまっていた。なんと律義なことに、「豊田」と思い出したと言うではないか。すると、もうひとりの日系女性が、両親の出身は福岡県と三重県で、父親は1924年にブラジルに移住したと教えてくれた。
地元ポリーニョの御影石を使って建てられたポリーニョの市役所。ポリーニョ郊外の山から良質の御影石が採石される。市役所の建物からはよくわからないが、ここで産出される石はピンク系の色調が美しい落ち着いた感じの「ロッサ・ポリーニョ」と呼ばれている。何と、東京都庁舎はポリーニョ産の御影石を使っているとのことである。(「ガリシアを知るための50章」から引用)
左の石碑には、「緯度?2度12分 経度36度10分 夏 2時間35分 冬 1時間36分」 と読めた。この地点の位置を示しているのか、何の時間を示しているのか、さっぱり分からない。右の石碑は、日時計が刻まれたようでもあるが、実用に供されていたとは思えない。
レドンデラのアルベルゲに12時半ごろ到着した。もともと16世紀に建てられ、casa da torre(塔の家)と呼ばれた。荘園の屋敷だったそうだ。6ユーロ払って、チェックインした。スペインの町営アルベルゲでは、皆6ユーロで、ディスポーザブルのシーツと枕カバーが与えられる。ベッドにセットして、寝袋を敷いた。このアルベルゲは42人収容できるのだが、3時半ごろ街中へ出かけるときには、入り口のドアにcompleto/full(満室)の札が掛けられていた。
公園に観光案内所があったので、入ってクレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプを押印してもらった。係りの女性が小生に話し掛けてきた。いつか日本旅行をして熊野古道を歩きたいとの夢を持っている。すでにインターネットで熊野古道の情報を検索しているようだ。小生は熊野古道を訪れたことがあるかと尋ねられた。残念ながら熊野古道へは行ったことがないが、四国遍路をしたことがある。四国という大きな島の海岸沿いを1250km、88ヵ寺を巡る旅だ。乞われてSHIKOKU HENROと書き出すと、彼女がパソコンに入力して検索したら、瞬く間に四国遍路に係る画像が現れた。多分、彼女はWebを検索して四国遍路の情報を得るだろう。
レドンデラの町に架かる鉄道高架橋。橋脚に説明のプレートが張られていた。「マドリッド高架橋は1881年に開通し、20世紀後半まで使われていた。長さ400m、高さ36m。その建設をめぐり数々の話がある。エッフェルの弟子のひとりが、この建設工事の費用が支払われなかったので、負債がかさみ、命を絶った。逸話のひとつは、レドンデラのサッカーチームが地元で試合をしたときには、多くの人が高架橋のプラットホームから試合を見下ろしたものだ。・・・」
































































