(リスボン~トマール)155㎞
2016年5月14日~5月20日
早朝にイスタンブール・アタチュルク空港を飛び立ったトルコ航空機は、4時間後に曇り空のリスボン空港に着陸した。直ぐ空港バスに乗り、プラタナスの並木に覆われたリベルダーデ通りを経て、30分ほどしてコメルシオ広場際で降りた。巡礼の帰りにリスボン(ポルトガル語ではリシュボーア)に立ち寄るので、市街地散策はそのときの楽しみにして、直ちにポルトガルの道巡礼に旅立った。![]()

1時間ほど歩くと、国立アズレージョ美術館が左手にあった。入口へ誘う通路には椰子の木やオレンジの木が植えられ南国情緒が醸し出されていた。アズレージョとは装飾タイルのことで、もともとアラブに由来し、スペイン経由でポルトガルにもたらされた。アズレージョはこの先いたるところで目にすることができた。この美術館はマドレ・デ・デウス教会を改装したもので、14世紀以降のアズレージョを展示している。
鉄道線路沿いの道を進むと、前方に白い骨組みにガラスを張ったような屋根の駅ホームが見えてきた。駅舎全体も近代的なデザインだ。このオリエント駅は1998年のリスボン万博に合わせて開業したそうだ。国道を隔てて同じスペインの建築家によるヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングセンターの賑わっている店の間を通り抜けて、万博跡地の国際公園に出た。
サカヴェンからテージョ川支流のトランサオン川沿いを辿り、やがて、草花の茂る土手道に入った。小鳥が頻りにさえずり、カエルの鳴き声が聞こえた。前の週に大雨が続いたそうで、道は滑りやすく、不覚にも二度転んだ。先方から5,6人の集団のサイクリングがやってきてすれ違った。
テージョ川の広い河川敷で柵に囲まれているところに行き当たった。入口にプライア・ドス・ぺスカドレス(釣り人の浜)とともに、パルク・リネアル・リベイリノ・ド・エスツアリオ・ド・テージョ(テージョ川河口の線形リバーサイド公園)と長たらしい表示があった。入口周辺にはほんの印ばかりの花壇があり、長い木橋の他は何もなく、ウォーキングする人たちのみ。あとは、広々とした荒地のなかの道が続いた。
昼間、カフェ(スペインのバルに当たる)で休憩したら、地元の客も店の人もテレビのサッカー試合の観戦に夢中になっていた。地元のチーム同士の対戦だと言っていた。だとすると、リスボンを本拠地とするベンフィカとスポルティング・リスボンであったに違いない。その日は、ベルデラ・デ・バインの“オスペダリア・アルファ10”の個室に25ユーロで泊まった。夕食をとりにイタリア料理店に行くとき、次々と通り過ぎる車が行き会う車と盛んにクラクションを鳴らし合っていた。ロータリーの芝生で子供たちとその母親たち12,3人が車のクラクションに応えて小旗を振っていた。多分、この地域では皆、この日のサッカー試合で勝ったチームのフアンであったのだ。ポルトガル人のサッカー熱を垣間見る思いがした。
朝7時過ぎに“レジデンシャル・フロル・ダ・プリマベラ”を出て、テージョ川方向に歩き進んだ。辺り一面が耕地、ところどころ荒地で、ぽつりぽつり農家の家屋があった。両手にステッキを突いて歩き進む巡礼の男が小生を追い越した。この日も30km近く歩いてきたので疲れ果てていた。丘の上のサンタレンの中心街まであと1.5㎞ほどの麓の道端で休んでいたら、車が止まり、運転していた男の人が声を掛けてきた。地元のポルトガル語で何と言っているのかと思っていると、ボンベイロ(消防士)という言葉が耳に入った。頭にぴんときた。車で消防署へ連れていくから、そこで今夜は泊まれと言っているのだ。数年前に調べたら、リスボンからポルトまでの巡礼路には宿泊施設が少ないため、地元の消防署で宿泊でき、YouTubeで消防士と巡礼者が交流している写真も見ることができた。今回、旅立ち前に調べてみると、ほとんどの消防署にはもう泊まれないとなっていた。男の人は休暇中の消防署員か関係者でもあるのかなと思い、可能なら泊まってみたかったので、車に乗り込んだ。ちょっと走ったら車を止めて、止まっていたパトカーに話しかけて先導させてしまったではないか。
消防署に着くと2,3人の消防士が出てきて、その男の人と話していたが、小生に英語で「なぜ、消防署に泊まりたいのか。」と聞いた。「この人に勧められたから。よければここに泊まりたい。」と言うより他なかった。サンタレンにはもう一か所消防署がある、と言って救急車に乗せられベッドに寝かされた。サイレンも鳴らさず走り出し、小生の指に器具を嵌めて脈拍を測り、自分のバイオリズムを知っているかとか何とか言われた。一市民の依頼を真摯に受け止めて対処してくれた。公僕そのものだ。小生は、迷惑を掛けてしまったと反省した。
建物は1年前に建てられ、町の中心街から引っ越してきたばかりなのだ。消防署らしからぬ端正な建物だ。受け付けてくれた若い女性署員に言われるままに5ユーロの寄付をし、2階のベッドルームに案内された。2段ベッドが4台あり、寝袋をザックから取り出した。隣の広いリビングルームを自由に使ってよいと言われたが、使いようがなかった。当たり前のことなのだがその後まったく構われず、ひとりぽつねんとしてつまらなかった。
翌日、消防署から巡礼の道へ戻るのに難儀した。地元の人に道を尋ねても巡礼路を外れているところでは、通じない。黄色い矢印を探すのに右往左往して、ポルタ・ド・ソル(太陽の門)を潜ってサンタレンの町を抜け出すのに1時間半ぐらい要した。

川面に木々が茂ったテージョ川がこの日初めて見えたとき、アジニャガの村に着いた。この日の宿泊先“カサ・デ・アザンジャ”へ地元のこじんまりした図書館の前にいた4人の子供たちが連れて行ってくれた。3つのベッドのある部屋で泊り客は小生のみ。広々したダイニングルームで、立派な食器で簡素だがフルコースの夕食だった。朝食も出て20ユーロ支払った。女主人は流暢な英語を話した。
ここを出て直ぐに、蔦の絡まりアズレージョが見え隠れする建物の前を通った。由緒ありげな建物だなと思いながら通り過ぎてしまった。帰国後調べたら、キンタ・ダ・カルディガ(カルディガ農園)の地は、1169年アフォンソ・エンリケス王によってテンプル騎士団に与えられ、その後変遷を経て今日に至っている。Youtubeの動画でも紹介されている。足を止めて道の両側にある史跡を見てくればよかった。
アタライアの街路のはずれに、この日泊まる“カサ・ド・パトリアルカ”があった。旧豪農の屋敷といった感じで、老女主人が受付てくれて、翌朝部屋の鍵をテーブルの上に置いて出て行くように言われた。あとは何のお構いもなかった。個室で25ユーロだった。洗濯機で衣類を洗濯してサンルームに干した。翌朝、食堂に用意されていたパンとコーヒーの朝食。************************************************************************
















































