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”あの頃、その時そして今” No.5 「堀留から新宿まで 走馬灯のように」 - 長岡 佑二(東京)

台糖ファイザーが堀留から日本橋柳屋ビルへ移転したのは、私が入社する直前の昭和40年(1965)はじめで、入社試験を堀留で受けて、4月の入社式は柳屋ビルでした。

それから約10年間、台糖ファイザーは柳屋ビルに本社を構えていました。

 

名古屋工場オープン、そして工場への転勤

入社4年後、1969年に当時台糖(株)の敷地内にあった神戸工場が、自前の新名古屋工場へ移転しました。

新工場開設を祝して社員全員が東西から客船をチャーターして、愛知県衣浦港の工場前の岸壁に集合した事は、若かった私にとっては非常に強い印象を与え、今も記憶に深く刻まれています。

私はこの船旅で、本社資材部から工場資材課へ転勤となり、それから3年間、武豊町六貫山の独身寮で寝袋で生活していました。

工場での生活は、通勤は独身寮前から会社のバスで往復し、夕方には独身寮で一番風呂に浸かり、食堂で楽しく飲み、食べていました。

日の長い時期、休日は、寮の前のテニスコートで朝から白球を追い、午後からは知多カントリーでこれまた白球に振り回され、夕方からは海水浴、夜ともなれば、隣町の半田で、ビリヤードや行きつけの飲み屋、と休日を目いっぱいエンジョイしていたような気がします。(今では考えられないような、優雅な生活でした)

 

本社へ再度転勤

 人間、良いことは長続きせず、数年後また本社転勤の命を受け、名古屋から高速バスで東京へ戻ってきました。

今度の勤務は総務部業務課で、仕事は損害保険と社有車の購入管理、1970年に導入した私有車制度の走行費チェック、オートローン関連業務でした。

本社へ転勤して間もなく、社内で何やら会社が新宿に引っ越すようだとの噂が広がりだして、結局は新宿・淀橋浄水場跡地の新都心(懐かしい響きです)にできる新宿三井ビルに入居することになりました。(当時は、親会社台糖が三井系で、その子会社だった台糖ファイザーも新宿三井ビルに入ることになったようです)

 

日本橋・柳屋ビルから新宿三井ビルへの引っ越し大作戦

引っ越しが本決まりになると、当然書類整理や箱詰め作業が発生しますが、作業できるゆったりしたスペースがなく、また、引っ越し先のレイアウトが未定で、什器備品類のほとんどは、移転先に持ち込むことになりました。

当時、台糖ファイザーでは什器備品類は購入時にベージュ色に特別塗装していましたが、新宿三井には、すべてオフ・ホワイトに統一したものを搬入することになりました。

その結果、柳屋ビル内の限られたスペースの中で、塗装業者がキャビネット、引き違い書庫等を朝から晩まで大会議室をはじめとした空きスペースにブルーシートを敷き、周りの壁、天井にはビニールで目張りをした中で塗装作業することになりました。

今、考えてみると、いくら大型のブロワーを塗装現場に投入しても、密閉状態のビルの中、さらに養生のためビニールで囲まれた空間でのシンナー等の有機溶媒を使用した塗装作業、よく事故が起きなかったものだと、今更ながらにホッとしています。

柳屋ビル内の塗装現場までは、台糖ファイザー側が持ち込み、業者の塗装作業が終了したものを引き取る。この仕事は、総務部が受け持つことになりましたが、総務部には若手社員が2名しかおらず、学生アルバイトを4名程度採用して運搬作業をすることになりました。

今考えてみると、再塗装して移転先へ運び込むより、新品で揃えて搬入すれば労力は半減したでしょうが、当時はまだ、「勿体ない」精神がしっかり根付いていたのでしょう。

 

オーバーオールを着ていて、塗装業者と間違われる

 塗装が始まり、最初のころは割合余裕があり、定時出勤、定時退社という調子でしたが、日を追うごとに残業が増えていき、学生アルバイト達(私を含めて)を元気づけるため、上司の許可のもと下働きのメンバーで日本橋を振り出しに飲み屋の梯子をして、酔いが足りないからと言っては全員でダッシュして景気をつけ飲み明かしたこともありました。

学生たちは野球部の連中で、体育会特有のノリのよさで、まだ若かったわれわれ社員2名も体育会系で調子を合せていました。

翌日、定刻になっても学生アルバイトが出て来ないので、後で聞いてみると、前日の二日酔いと、飲んで裸足で走って足が傷だらけで歩ける状態ではなかったとのエピソードを思い出します。

そんなこんなで、作業は連日残業になり、金曜日は徹夜で仕事、土曜日の朝、帰宅してそのままテニスコートに行き、夕方その足で柳屋ビルに出社して日曜日の夕方まで作業していました。(現在では、過労死のブラック企業にリストアップされそうです)

一方、塗装作業と並行して、移転先のレイアウト、グランド・デザインは総務部が、各部門のそれは部門別に組織された引っ越し大作戦担当チームがグランド・デザインのコンセプトに沿って準備しました。

引っ越し間際になると、移転先の現地確認に行きましたが、当時、西新宿は空地だらけで、目をひくものは京王プラザホテルと新宿三井ビルだけで新宿西口から中央公園まで何もなく、小田急のテニスクラブがぽつんとある程度で、荒野に建つビルという雰囲気でした。柳屋ビルのある日本橋界隈に住んでいたサラリーマンとしては一抹の寂しさを拭い去ることができませんでした。

 

引っ越し大作戦当日

 引っ越しは土曜日の夜、交通量の少ない時間帯にトラックをずらりと柳屋ビルの前に並べて、順次荷物を積み込み新宿へ出発しました。

一方、受け入れ側の三井ビルでは地下駐車場で、貨物搬入用エレベーターに各部門ごとにナンバリングされた什器備品および書類等を積み込み、最寄りの階で下すのにかなりの時間を要するので、待ち時間がありました。

何せ、新築のビルで新規入居テナントばかりですので、荷物搬入は時間で区切られて、他社の移転も、当然、休日夜間に集中していました。

各部門の引っ越し大作戦チームメンバーには、当日、荷物搬入および備品什器の配置がレイアウト通りに行われるよう立ち会ってもらうため、隣の京王プラザに泊まってもらい、夜中の指定時間に現場に臨めるよう手配しました。

 

高層ビルからの夜景に感激

 何とか荷物の搬入が終わりましたが、新しいビルのレイアウトがなかなか直ぐには頭に入らず、あちこちに迷い込みました。

引っ越した晩の夜景は特に綺麗で、21階から23階で見た東京湾方面の夜景は今でもはっきり覚えています。

あれから40年、現在の新宿クィントビルに移転するまでの30年間を新宿三井ビルで過ごしたわけですが、今では淀橋浄水場跡地には都庁をはじめ、のっぽビルが林立して隔世の感があります。

そのような感慨にふけるのは私だけでしょうか?

 

 

 

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