ここをクリックして名前登録の手順をご覧ください

サンティアゴ巡礼の旅(北の道続編)その3

サンティアゴ巡礼の旅日誌より

(ミラス~サンティアゴ・デ・コンポステーラ)91km
2019年6月9日~13日
(サンティアゴ・デ・コンポステーラ滞在)
6月13日~16日

朝、カナダのケベック州から来たジャンと連れ立ってミラスのアルベルゲを出発した。標高500mのミラスから緩やかな登り道で、標高710mの地点を通り、ソブラド・ドス・モンシェスまで辿った。

                            Map: ミラスのアルベルゲ

ミラスを出て緩やかな登り道

また、エニシダの群生に囲まれた

鶏も放し飼いの巡礼路

白シャツ姿の牧夫が白色の車を運転して牛の群れを先導してきたが、左側の道へ追い込んでいた。通り掛かった車は、牛が車道から去るまで辛抱強く停車して待っていた。

当時はまだガラケー(携帯電話)が通用していたのだ。ガラケーを持参して、出国時、国際通話が可能となるアプリをレンタルした。3日ばかり妻とガラケーで通話していなかった。ミラスからソブラド・ドス・モンシェスへ向かう途次、電話を掛けたところ、通信圏外と表示されて妻と繋がらなかった。しばらくして掛け直したら通じたが、妻側で思わぬ事態となっていた。小生に電話したら、分からぬ言葉でペラペラと応答された彼女は冷静さを失って、とっさに小生が悪者に拉致されたと早合点した。直ぐに息子に電話して(震え声で息子に電話してきたそうだ。)、マドリードの日本大使館と連絡を取ってもらい、求められて小生の行程表をマドリードにファックスするところだと言うではないか。恐らく、小生が通信圏外を歩いているときに、スペイン国内で混線してスペイン人に繋がったのだろう。ドコモに問い合わせたら、混線なんてあり得ないと言われたそうだが。そもそも巡礼路には、思いやり、感謝の気持ち、質素な生活などが漂っていて、悪者が入る余地などないと小生は思っている。

ソブラド・ドス・モンシェスの地域に入ると、樹林に覆われた大きな池が現れた。これは、これから訪れるサンタ・マリア・デ・ソブラド修道院への給水、この地域の灌漑のために、1500年頃シストー会の修道士たちが造った人工の池である。この周辺は自然保護地区に指定されているそうだ。

                       Map: ソブラド・ドス・モンシェス池

サンタ・マリア・デ・ソブラド修道院に午後3時頃に着いた。修道院への出入りができない昼休み(午後2時~4時)だった。広場にあるバルのテーブルで居合わせた巡礼者と寛いだ。

ルーマニアから来た若い女性二人。小生が日本人と分かると、そのひとりが、懐かし気に話してくれた。今は亡き父親が、若いとき日本に1年間滞在して金属加工技術を習得し、帰国後祖国の労働者に教え込んでいたのだと。

レユニオン島をご存知だろうか。小生は知っていた。旅立つ3,4か月前にNHKのBS放送で「断崖絶壁に“愚か者”挑む孤島 レユニオン100マイルレース」を見ていたからだ。レユニオン島はマダガスカル島から800km東方のインド洋上に位置する。フランスの五つある海外県のひとつで、人口85万人。パリからレユニオン島まで空路があり、毎日運航。世界一長い国内線という訳だ。テーブルを囲んだペアがレユニオンから来たと言ったとき、小生は、100マイル・インターナショナル・レースの行われるレユニオンですね、と直ぐ反応できた。彼らはオリビエとアネシエと名乗り、レユニオン島に住むフランス人(奥さんのアネシエはアフリカ系フランス人)なのだ。オリビエは小生と同様、英語で話すことが苦手らしく、何故かほっとした。カナダのケベックから来たジャンは日常フランス語で意思疎通を図っているそうで、オリビエと話が弾んだ。

                               Map: レユニオン島

広場のテーブルに寛ぐルーマニアから来た女性二人、レユニオン島から来た夫妻とジャン

サンティアゴ巡礼路のうち、フランス人の道は1993年に世界遺産に登録された。恥ずかしながら、ソブラド・ドス・モンシェスへ来るまで知らなかったのだが、2015年に「スペイン北部の巡礼路群」という名目でサンティアゴ巡礼路のうち、北の道、最初の道(Camino Primitivo)などが世界遺産に追加登録されていたのだ。今回歩いてきた北の道沿いの三つの建造物も世界遺産に認定されていた。サンタ・マリア・ソブラド・ドス修道院もそのひとつである。この修道院の起源は10世紀に遡る。1954年にシストー修道会が再建築に取り掛かり、1966年以降20人ほどの修道士が自給自足の共同生活を送っているそうだ。

修道院の建物はシートで覆われた外装が修築中であった。近年修道院の外装は苔むして荒れるに任せる状態だった。世界遺産に登録されたことにより国費が投入されるようになったのかな。

修道院に宿泊するチェックインのためクレデンシャル(巡礼手帳)とパスポートを手にして待った。カップルが修道士と時間を掛けて面接していたので、いろいろ聞かれるのかと心構えをしていたが、他のスタッフが受け付けてくれて、何も聞かれず単に8ユーロ支払い、クレデンシャルにスタンプを押印してくれた。

外装修築中の修道院のクラウストロ(内庭回廊)からの眺め
クラウストロ沿いにいくつかの宿泊部屋があり、2,30人の巡礼者が泊まった。

                      Map: ソブラド・ドス・モンシェス修道院

6月11日付地方紙La Voz de Galicia(ガリシアの声)に載ったガリシア州の天気予報。
サンティアゴは一日中casi cubierto(ほぼ曇り)の予報だ。

サン・ミゲル・デ・ボイミル教会。サンティアゴまで37kmの地点だ。 

朝7時半頃ジャンとアルスアのホテルを出発。街路は朝靄に覆われていた。アルスアでフランス人の道(Camino Frances)と合流したので巡礼者の姿が俄然多くなった。

空き瓶を利用して飾り立てたバルの前庭

Gato(雄猫)か、Gata(雌猫)か。朝靄のかかった巡礼路

サンティアゴの入口を示す標石でジャンと。サンティアゴ・カテドラルまで12kmの地点だ。

モンテ・ド・ゴソが間近になった。皆、巡礼者なのだが、背負う軽装のザック姿から、巡礼証明書を貰えるサンティアゴまで100kmの辺りから歩き始めた人もかなりいるのではないか。

モンテ・ド・ゴソのアルベルゲのある敷地に入って、びっくり仰天した。二十数棟はあるアルベルゲの建物がすべて閉鎖されていて、敷地内のレストランや店舗も閉まっていた。周囲も植栽に手が入れられていて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世訪問記念碑の周囲にはロープが張られていた。モンテ・ド・ゴソのアルベルゲが改装のため閉鎖されているとの情報を迂闊にも得ていなかったのだ。

それから、ジャンとサンティアゴ・カテドラルに達するまで、沿道のホテルを見つけるとフロントに空きベッドがあるか尋ねた。7,8軒の安ホテルは、すべて満室。

午後3時頃カテドラル前のオブラドイロ広場に着いた。外装の修築は終わっていて、装い新たな壁面のカテドラルを見上げた。ヤコブ像が目に入ったとき何故か目頭が熱くなった。

ジャンとカテドラルの内部へ入った。内装が修築中であったが、中央祭壇の聖ヤコブ像のもとまで入り、前の人に倣って聖ヤコブ像を後ろからハグした。

                Map:サンティアゴ・デ・コンポステーラ・カテドラル

街中の観光バス案内所で、翌々日のバス・ツアーに参加したいが今晩泊まるところがないと言ったら、オブラドイロ広場からそれほど離れていないホテル・ボンバルを紹介してくれた。

サンティアゴ滞在2日目、終日ジャンと行動を共にした。朝、巡礼事務所前に並んで40分ほど待ち、8時にオープンして直ぐに巡礼証明書を手に入れた。その後、サンティアゴ市内を散策して、カテドラルの北側にあるサン・フランシスコ修道院での正午からの巡礼者のためのミサに参加した。カテドラルの内装工事中、ミサはここで執り行われているのだ。過去にカテドラルでの立錐の余地もないほどに人が集まった荘厳なミサとボタフィメイロ(大香炉)の儀式を見てきた小生には物足りなかった。

                               Map: 巡礼オフィス

ミサが終わってカトリック信者は司祭からホスチア(パン)を受けた。

                          Map: サン・フランシスコ修道院

サンティアゴ滞在3日目、ジャンの希望を叶えて日帰り観光バスに乗り、フィステーラ、ムーシアを再び訪れることができた。2005年にサンティアゴからフィステーラへ徒歩で向かう途次、通過したマセイラ橋も14年振りに訪れた。

マセイラ橋。14世紀に造られ18世紀に修復されたそうだ。
                        
                                Map: マセイラ橋

バス・ツアーからサンティアゴ帰着後、ジャンと別れて、バス・ターミナル近くの安ホテルに泊まった。翌日、カテドラルの聖ヤコブ像を再度礼拝して、カテドラル内の博物館を見学した。そして、カテドラル周辺で夕方まで過ごした。オブラドイロ広場にいると、次々と到着する巡礼者がハグしたり、キスを交わしたり、グループで歌を歌ったりして、見ていて興味が尽きない。

オブラドイロ広場

小学生が遠足でカテドラルを訪れていた。

カテドラル上階の博物館からオブラドイロ広場を見下ろしていると、中古乗用車が次々と入ってきて駐車した。広場に出てよく見るとどの車にもSEATとの車名があった。小旗を掲げた車もあったが、旗には確か「SEATフアン・クラブ」と表示されていた。傍にいた女性が1960年代のセアト(SEAT)だと教えてくれた。スペインにも国産車があることを初めて知った。巡礼中、行き合う巡礼者はどこの国から来たのだろうと思っても、出合う車には関心がなかった。SEATの駐車中何のイベントもなく、2,3時間後に次々と出て行った。

夕刻、バス・ターミナルへ行き、21時過ぎのマドリード行きのALSA夜行バスに乗った。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅 参考資料

メインページに戻る