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サンティアゴ巡礼の旅(北の道続編)その1

サンティアゴ巡礼の旅日誌より

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北の道編#4、その1
(ビジャビシオサ~タピア・デ・カサリエゴ) 169km
2019年5月28日~6月3日

 

成田からのイベリア航空直行便は18時過ぎにマドリード・バラハス空港に着陸した。実は、2014年3月にアドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港が正式名となっていたのだ。これは、独裁者フランコの死後スペイン民主化の立役者となり、2014年3月23日に亡くなったアドルフォ・スアレスの功績を讃えてのことだそうだ。
到着フロアーで時間をつぶして23時発のALSA夜行バスに乗った。マドリードのバス・ターミナルでほぼ満席となった。オビエドを経由して直ぐに夜明け前のヒホンに着いた。ローカルバスに乗り換え、乗客は小生ともう一人のみ。
7時近くにビジャビシオサのバス停で降りた。そして、無人の街路を歩き始めた。

 

 

ビジャビシオサの路傍に「ロス・カニョスの泉」(皆のためにこの場所を汚さないでください)とプレートに

Map:ビジャビシオサ

 

30分ほど歩くと「カミノ・プリミティボ(最初の道)」との分岐点に出合った。11年前に左手を進み、オビエド経由の「カミノ・プリミティボ」を辿った。今回は真直ぐ進んでヒホンに向かい、海沿いの「北の道」を行くのだ。

 

 

ハイウェイを陸橋で渡り、けっこう勾配のある山道を登り始めた、慣れない体には応えた

途中からアスファルト道となり標高436mのアルト・デ・ラ・クルス(CRUZ)に着いた、十字架(CRUZ)はなく、看板があるのみだった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山からどんどん下ってペオンの集落へ。リンゴ畑沿いの巡礼路。ビジャビシオサはリンゴ畑があちらこちらにあり、シドラ(リンゴ酒)が造られている。それで、ビジャビシオサはCapital de Manzana(リンゴの都)と名付けられている。

ヒホンのサン・ロレンソ浜

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒホンのホテル・ラ・アレナで朝食後8時ごろ出発、市の東側のサン・ロレンソ浜のまだ人の行き交いの疎らなプロムナードを進み、北側のヨット・ハーバーの岸に出た。デザイン字体のGIJON(ヒホン)の看板の前で、初老の男に声を掛けられた。が、彼は巡礼中知り合ったのかひとりの若者と話し始めたので、小生は先に歩き出した。ヒホンの市街を抜け出す途次、道連れとなった。彼はジャンと名乗り、63歳でカナダのケベックから来た。

 

Map:ヒホン

 

 

高台の放牧地を抜けると、なだらかな坂を下って、青空が広がる野道に出た

 

 

アビレスに近づくと私鉄FEVEの製鉄工場への引き込み線で鉄鋼材の積込作業が行われていた。近隣で鉄鉱石や石炭が産出されたのでこの地域、製鉄が主要産業となったようだ。

 

 

 

夕方5時ごろアルベルゲに着いた。ジャンはホテルに泊まりたいと言ってここで別れた。

アビレスの中心街を散策した。市役所前のスペイン広場に置かれたテーブルに大勢の人たちが憩っていた。

Map:アビレス

 

繁華街の中心に位置するサント・トーマス・デ・カンタベリー教会、アビレスのシンボルである

 

サント・トーマス・デ・カンタベリー教会の中央祭壇

朝8時ごろアルベルゲを出て、アルビスの中心街から郊外の住宅地を通って1時間半ほどで車道(ガリシア通り)に出た。ここで巡礼路の標識を見失ってしまった。ともかく西へ向かえばよいと思い、ガリシア通りを進んだ。
帰国後、どこで標識を失ったのか、グーグルマップで特定しようとしたが、小生のカメラでとった写真とグーグルマップの写真がかなり異なるので難儀した。別の場所で小生が撮った写真で比べてみた。

 

 

 

 

小生のカメラで焦点を絞って撮った写真

グーグルマップでほぼ同じ景色の写真

(なお、写真に巡礼路を示す大きな標識があったが、自転車巡礼者のためだ。)

 

 

 

 

 

ガリシア通りを1時間ほど歩いてN-632(国道)に入った。平行してハイウェイが通っているので車の行き交いは疎らだ。長い緩やかな登りが続いた。

逆方向から競技用車椅子に乗った人が現れた。車の通行が疎らとは言え、スピードを出した車が通る。スペインならば、の場景だ。

再び、ややきつい勾配の坂を登りきってレストランの前で立ち止まった。すると、「日本の方ですか。」と自転車巡礼の二人連れのひとりに声を掛けられた。伊藤さん、吉田さんと名乗り、確かふたり共64,5歳だった。今回の旅でこれが日本人との唯一の出会いだった。それも、たまたま巡礼路の標識を見逃して国道ルートを歩いてきたからだ。レストランでふたりと食事をした。小生はともかくビールを飲みたかったので、つまみ程度のピンチョス(小さく切ったパンに少量の食べ物がのせられた軽食のこと。)を食べた。ふたりもピンチョスにした。彼らは自転車走行中、禁酒なので、これでは物足りなかったろう。ふたり共、NHK・BS放送の「一本の道」や「にっぽん縦断 こころ旅」を気に入って視聴してきたと聞いて、彼らと馬が合うなと思った。伊藤さんは、「63歳から自転車始めた旅好き男のブログ」と題してブログをアップしていると聞いて、帰国後早速Webページを開いてみた。巡礼の旅のあいだ、毎日疲れているところブログを綴り、アップするバイタリティに感服した。巡礼の旅も、自転車走行に拘らないで、天候、スケジュール次第で鉄道(FEVE)やバスを利用している。伊藤さんの料理の腕前はプロ並みで、宿泊地の魚市場・マーケットで食材を入手して調理したようだ。ただ歩き旅に満足してきた小生に一石が投じられた思いだ。

 

 

伊藤さん、吉田さんと別れて、小生が一足先に歩き出した。ふたりが自転車で小生を追い越したとき、写真を撮ろうとしたが、たちまち走り去ってしまい、かろうじて遠くに走行している吉田さんを写した。

 

ソト・デ・バルコを過ぎるとナロン川越しに中世の城跡が望めた

 

 

 

 

 

 

 

 

ナロン川に架る橋、歩道のスペースが歩行者軽視と言わざるを得ない

ムロス・デ・ナロンのマルケス・デ・ムロス広場を前にしてサンタ・マリア教会。右隣にこの日宿泊したアルベルゲと町役場。広場のテーブル席で地元の人たちが憩っていた。

 

 

 

 

 

 

 

ムロス・デ・ナロンに遺るバルデカルサナ宮殿のファサード。このファサードは16世紀のプラテレスコ様式(スペイン・ルネッサンス建築の装飾様式だそうな。)である。19世紀初頭、ムロスの人々からの略奪と火災を命じたフランスのネイ元帥と(スペイン)独立戦争の間、兵舎として使われた。(と言うようなことが、説明版に述べられていた。)

Map:ムロス・デ・ナロン

 

 

 

ムロス・デ・ナロンの観光案内所の前の看板に、地元の観光・文化ルートと地元をロケ地とした映画が案内されていた。スペインでは知られているのだろう、ムロス・デ・ナロンで初めてロケ撮影された映画「ホセ」とか、女優、脚本家として活躍したムロス・デ・ナロン生まれの「マルガリータ・ロブレス(1894-1989)」が紹介されていた。

 

 

 

 

エル・ピトに向かう道、若い女性ふたり連れが小生を追い越した

エル・ピトのヘスス・ナサレノ・デ・ピニェラ教会

 

 

 

 

 

 

 

 

この辺りは起伏のある土地柄で、ハイウェイの長くて高い陸橋が架けられている。

ムロス・デ・ナロンから海抜100~200mの台地の道を辿ったが、ハイウェイの長くて高い陸橋の下を潜りFEVEのマグダレナ駅に達すると前方にコンチャ・デ・アルテド浜が見渡せた。巡礼路を逸れて浜辺のバルでビール休憩をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソト・デ・ルイニャの閑散とした街路から横道に逸れてアルベルゲに入った。一見して分かったが廃校となった校舎を利用したものだ。

 

Map:ソト・デ・ルイニャ

 

ソト・デ・ルイニャのサンタ・マリア教会。こんな質素な教会が、2015年に世界遺産のひとつに組み入れられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サンタ・マリナのバルの外のテーブルでふたりの男とビールを飲んだ。そのひとりがスマホの翻訳機能を使って話しかけてきた。スマホにそんな機能があることを初めて知った。
つまり、男のひとが話すと、日本語に翻訳されるのだ。その字句を見て、小生が日本語で返事をするのだが、もともと口下手な小生は面食らって言い淀んだりして、確か、翻訳されないで「簡潔に話してください」と日本語で表示された。結局、彼らがポーランド人、小生が日本人であることが分かりあったのみだった。

 

 

青空の下、カボ浜に出た

Map:カボ浜

 

海べりの土の道を辿るとタブリソ浜の岸壁の上に出た。そこで出会った男の人が小生のカメラで写真を撮ってくれた。その人が足元の草むらに気をつけろと言ってくれなかったら、足を踏み外して岸壁の上から落ちてしまったかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バレシアの共同洗濯場。「1892年にD・ミゲル・ゴンザレスがこの洗濯場を再建した。2000年にバルシアとレイハンの人々によって修復された。」と板に表示されていた。

午後1時過ぎに漁村のルアルカに到着した。アルベルゲは既に満室だったので、アルフォンソ10世・エル・サビオ広場に面したオテル・リコに泊まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

Map:ルアルカ

 

ルアルカの街は港を底とした半すり鉢状の地形なので勾配の激しい坂道を往来しなければならない。

ルアルカの小さな公園に多くの親子連れが集まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルアルカの町。高架橋は私鉄(今は国鉄)FEVEの線路。この辺りの運行は、2両連結で一日、上り下り各2本のみ。狭軌鉄道と呼ばれるが、日本の在来線の線路幅と同じだ。カンタブリア海沿いの路線を中心に総営業路線は1200km。「トランスカンタブリコ」と言う豪華観光列車も走らせている。北の道を歩いてヒホン以降、何度か無人駅の傍を通過したり、踏切を渡ったりした。大赤字続きで2012年に私鉄FEVEは国鉄RENFEに吸収されたことを、今回の旅で知った。

 

 

 

国道N-634から脇道に入り登っていくと、民家の人が造り上げたのであろう、様々なオブジェが見られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビジャペドレのバルで休憩してビールを飲んでいたら若い女性が入ってきた。話しかけたら何と上手な日本語で話し返すではないか。珍しいことに彼女は中国本土から来たのだ。周さんと名乗った。大学で日本語を習得したそうだ。お互いに写真を撮り合った。彼女はスマホをセットして遠隔操作のボタンを押して、ふたりが並んだ写真を撮ってくれた。帰国してパソコンを開いたら、その写真を翌日に旅先から送ってくれていた。
彼女は前年日本を訪れて、熊野古道を歩いた。その時サンティアゴ巡礼と併せた「共通巡礼手帳」を発行してもらったそうだ。その「共通巡礼手帳」を見せてもらえばよかったのに、と悔やんだ。世界で「巡礼道」の世界遺産は2例しかない。サンティアゴ巡礼路と熊野古道。サンティアゴ・デ・コンポステーラ市と和歌山県田辺市は観光交流協定を結び、その活動のひとつとして共通巡礼手帳を発行している。
帰国後Eメールで交信したが、彼女は休みが短いので、一日、タピアを観光して、翌日バスでサンティアゴに行き、会った日から一週間後には帰国したそうだ。だとすると、巡礼達成条件を満たしていない。巡礼証明書を得られたのかな。共通巡礼達成証明書もおじゃんでは・・・。でも、彼女は若い。何度でもサンティアゴ巡礼ができる。

 

 

今にも雨が降り出しそうな空だったが、バルを出ると霧雨が降り出した。

ナビアへ向かう道でジャンと再会し、そこから連れ立って歩いた

 

Map:ナビア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カリダードに入ったとば口にアルベルゲがあった。すでに空きベッドがなかった。戸口にいたオスピタレイロ(男性管理人)に言われた。「すぐ近くにあるもうひとつのアルベルゲに行きなさい。もし空きベッドがなかったら親切に他の宿泊先を紹介してくれるよ。」そのアルベルゲを訪れると、やはり満室だった。オスピタレイラ(女性管理人)から5km先にキャンプ場があり、そこで泊まれると教えられた。まだ5kmも歩くのかと決めかねていたら、ちょっと待て、息子がタクシーの運転手をしているからキャンプ場へ送れると言われた。渡りに船と自家用車に乗り込んだ。6ユーロ請求されたが、色を付けるといっても地が出て渋いことだが7ユーロ払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

キャンプ場はキャンピング・A・グランデージャといい、1ヘクタールはあるかと思われる広い敷地に8棟のコテージや2階建ての建物もあった。コテージのひとつをあてがわれた。
2食付き宿泊料は59ユーロだった。カリダードでホテルに泊まると言うジャンと別れていたが、ホテルも満室でここを紹介され、ジャンとまた一緒になった。
翌朝、食堂で朝食をとっていると、高齢の男性が一緒のテーブルに着いた。彼と言葉をやり取りした。ドイツ人で名はフランツ、現在ミュンヘンに住んでいる。自転車旅を重ねているが、今回は4月末にスイスのジュネーブを出発し、フランスで「サンティアゴ巡礼の道」に入り、スペインで「北の道」を辿ってきた。4人の息子がいるが、そのひとりがリスボンに住んでいるので、サンティアゴ到達後、「ポルトガルの道」を逆走行して、リスボンへ着いたらそこに3週間滞在するそうだ。彼は1940年4月に生まれ、兵士だった父親が1945年に亡くなった。小生は1940年7月に生まれ、父親は1945年に空襲から住民を守る役目(警防団と言った。)を果たしていたときに亡くなった。事実を述べあっただけだが、通じ合うものがある気がした。

Map:カリダード

Map:キャンピング・A・グラデージャ

 

海岸沿いにタピアに向かう道と山側を辿る道との分岐点。右手の海岸沿いの道を採った

フランツ

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャンとキャンプ場を出発して1時間半ほどでタピアを歩いているとき、後から自転車のフランツが追いついた。「ブエン・カミノ!(よき道中を!)」「ブエン・ビアッヘ!(よき旅を!)」と言い合って、彼は去った。

Map:タピア・デ・カサリエゴ

 

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅 参考資料

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