2019/05/14 降ったりやんだり ほぼ3時間(除く休憩・食事時間)
参加者8名(敬称略)
上田礼子・ご友人3名(笹山・神野・鈴木)・田中孝治・田柳とも子・平山晃一・水野赫子 計8名
集合時間頃にポツリ、ポツリときまして、傘はさしたり、畳んだり。終盤にはほとんど畳んでいました。
大雨に合わなくて良かったです。
今回上田さんが、ご友人をお誘い下さり、賑やかに歩きました。
上野公園地図と上野~谷中地図を配布後出発。
*各説明記述はパンフレット、各説明板等を参考にしています。画像は主に下見時の物です。
10:30 エレベーターで「R」まで昇り出たところが山王台、西郷さんの銅像横。
明治31(1898)年建立。高村光雲作、犬のツンは後藤貞行作。
関東大震災時は人探しの掲示板代わりになりました。
山王台には、かつて「山王社」があり、その周辺は「櫻が峰」と呼ばれていました。(名所図会より)桜の名所であったのですわね。
銅像から、右手の方にすすみますと、厳かに囲われた彰義隊墓所があります。
10:32 1868/5/15上野戦争勃発、
無血開城を不服とする旧幕府藩士たちは彰義隊と名乗り、徳川家の菩提寺がある上野寛永に集結、抗戦。新政府の指揮官は大村益次郎、大砲ア-ムストロング砲で砲撃、総攻撃。この砲撃は不忍池越しに本郷方面からだったそうです。午後5時、彰義隊はほぼ全滅して戦闘終結になり旧幕府軍の残党は根岸方面へと敗走します。この敗走路は大村の作戦通りでした。このあたりの様子は司馬遼太郎「花神」に詳しいです。激しい攻防戦弾痕跡が残る寛永寺の黒門は南千住「円通寺」に移築されており、彰義隊266名が葬られています。墓は誰が?生き残った隊士小川らが明治7(1874)年新政府の許可を得て隊士の遺体の火葬場となったこの地に建立(説明板より)
10:36 清水観音堂国指定重要文化財 寛永8(1631)年建立、江戸城の鬼門の守りとして京都の清水寺と同じ舞台作りで建立
創建年時の明確な最古の建造物。ご本尊・千手観世音菩薩、本堂裏手には「秋色桜(しゅうしきざくら)」という、近くの井戸とともに江戸時代から知られる桜があります。
10:51 摺鉢山 現存の全長約70メートル、後円部の直径約40メートルで西に前方部を向けた前方後円墳です。埴輪の破片や須恵器(すえき)が出土したこともあり、約1500年前に築かれたものと推測されます。古墳地代にはこの古墳を中心に、東京国立博物館構内にかけて古墳群を形成していましたが、現在ではこの古墳が唯一残っているもの(江東区HPより)
それにしても摺鉢山とは?伏せた状態が似ているということでしょうかね。上ると上は平らになっています。
い
清水観音堂 摺鉢山への石段
摺鉢山をあとにして、櫻花通りを精養軒方向に歩きますと赤い鳥居が幾重にも重なっているのが見えてきます。
花園稲荷神社です。通りを少し下り右手に進みます。右側の扉を開けて穴稲荷に入ります。
彰義隊の残党は穴稲荷神社に立て籠もって官軍を迎えうったため砲撃により跡形もなく破壊されてしまいましたが、5年後の明治6年。穴稲荷神社は社殿等が整備され「花園稲荷神社」と名を改めて甦りました。
横穴状で天井は高いです。入ると右と正面に祭壇があり賽銭箱は一つです。整備されたので、戦いの跡は見られませんでした。

穴稲荷入口 穴稲荷内部 赤いのは賽銭箱
花園稲荷神社(ご利益は縁結び他)本殿にお参りしてから、右手の階段に続く赤い鳥居をくぐり抜け稲荷坂を昇ります。


精養軒が見えてくると左の小高い木のかげに時の鐘が見えます。
手前には説明版もありますが、
この時季は葉が多いのでわかりにくいかもしれません。
11:05 時の鐘は天明7年(1787)鋳造 朝夕6時と正午の三回、今も撞きならされています。
12時まだ公園内にいましたので鐘の音聞きましたよ。皆さんの感想は、いい音だね!!
精養軒の右手、少し小高いところは、かつて大仏山と呼ばれていました。そこにお顔だけの上野大仏があります。
11:08 上野大仏は、寛永8年(1631)建立、元禄11年(1698)伽藍整います。 その後、地震(正保・安政)天保の火災等、災害にあいます。関東大震災ではお顔が落ちてしまう、再建されることなくお体は戦時供出に。 昭和47年(1972)この地にお顔を祀ります。 「これ以上落ちない合格大仏」として信仰を集めています。合格お礼の絵馬も沢山。
同じ場にパゴタ(仏塔)があります、上野観光連盟が観光名所の一つとするために建設。昭和47年(1972)竣工。
時の鐘はここから良く見えました。


大仏様 元のお姿(説明板より)
東照宮の方に進みます。右手に巨大な石灯籠が見えてきます。。11:12 お化け灯籠です。刻字は奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之 東照大権現御宝前石燈籠 寛永年辛未孟冬十七日 寛永8(1631)年とあります。佐久間勝之さんって良く知りませんが、この時期は東照宮創建間もないので他にさきがけての奉献でありましたね。さらにサイズは高さ6.06m、笠石の周囲3.36m その大きさからお化け灯籠と言われるのです。京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大灯籠に数えられています。

お化け灯籠 参道
そのまま参道に入り、立ち並ぶ石灯籠を見ながら東照宮に行きます。
11:15 東照宮は寛永4年(1627)創建。 金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財、社殿は慶安4(1651)年に三代将軍・徳川家光が造営替え、この際に約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。刻字をみると慶安4年が殆ど。ご利益は「出世・勝利・健康長寿等」。
東照宮の参道に五重塔撮影スポットがあります。五重塔は動物園内にありますのでここからが一番!
五重塔は、寛永8年(1631)江戸幕府草創期の重臣土井利勝が、東照宮造営にあたり寄進した塔です。寛永16年(1639)に焼失し、明治時代、神仏分離令の為境内の五重塔を寛永寺に譲渡、現在は焼失後昭和33年(1958)に寄進されたものです。五層全体が和様式で、九輪までの高さは約36mあり、重要文化財に指定されています。



東照宮を出ますとすぐ左に茶店があります。珍しい「もんじゃマン」を全員が食べました。肉まんの中身がもんじゃ焼きです。なかなか美味しかったです。少し休憩しました。
茶店の右にグラントさん植樹碑があります。今回案内しませんでしたがご説明だけ。
第18代米国大統領グラントさんは任期終了後明治10(1877)年から家族同伴で世界を周遊。その際来日。明治12同年8年月25日上野公園で開催の大歓迎式典に出席、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を植樹 将軍の肖像は50$札に描かれている。 グラント将軍植樹碑は(重要文化財)
グラントさんと夫人の植樹「ローソン檜と泰山木は植えてから126年になります。この数年樹勢の衰えが著しいので樹木の健康診断と治療を行います。平成17年3月」の看板がありました。現在は140年目と言いうことですね。診断結果はどうだったのでしょうか。少し気になります。

12:00 科学博物館のクジラが見える手前に野口英世銅像があります。
高さ4.5メートル(石台を含む)。
製作者は多摩美術大学教授、吉田三郎。何故ここに?
昭和26年(1951)に福島県出身の玉応不三雄によって計画されましたが、戦後の事で資金調達は困難を極め、玉応さんは達成できずお亡くなりに。その後日本医師会、北里研究所など医学界が引き継ぎ建立されたとのことです。
野口博士の偉業は皆さん良くご存知と思います。
上野戦争により、荒れ果てた広大な寛永寺跡。明治6年(1873)東京府公園として整備される事になり、その後、大正13年(1924)に宮内庁から東京市に払い下げられ上野恩賜公園となりました。
本日は出ていない大噴水を通過して公園をでます。左に進みます。右側は東京国立博物館です。
今は「国宝東寺―空海と仏像曼荼羅」展開催中6月2日迄です。お奨め。
敷地内の表敬館がちらと見えるのを過ぎると立派なご門が見えてきます。
12:05 池田屋敷表門は、大名小路に面した因州池田家上屋敷の門でありました。親藩や譜代大名の藩邸(24家)が連なっていたため「大名小路」と呼ばれていました。明治25年に高輪の常宮御殿に移築、 常宮(恒久王妃昌子内親王)は明治天皇の第六皇女で、のちに竹田宮恒久王に嫁がれます。恒久王と常宮の曾孫が竹田恒泰氏。
因州池田屋敷表門は昭和29年3月上野の東京国立博物館に移築されました。
土・日・祝・休日および1月2日・3日の10:00~16:00に開放とありました。今日は入れません。

目の前の交差点右に京成電鉄の旧動物公園駅舎があります。最近、入口らしいのが二か所ほどできました。看板が「旧博物館動物公園駅」とついています。駅は利用されていませんが線はあり通過しているそうです。
12:10 旧博物館動物公園駅舎は東京都選定歴史的建造物 京成電鉄の上野駅(現京成上野駅)と日暮里駅の間にあった地下駅で1933年12月に開業。乗降客の減少などにより1997年に営業を停止2004年に廃止となっていた駅です。下見の折はコンサートか何か開催後で入口が開いてました。益々中に入りたくなりました。京成電鉄のHPでイベント確認はできるそうです。

内部天井はドーム型
信号を渡ると黒田記念館、日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。赤いレンガの印象的な建物です、その隣が国際子ども図書館。
12:16 国際子ども図書館は、旧帝国図書館、東洋一の図書館を目指し明治39年に建設されました。
一階奥のカフェテリア(ランチメニューの他、軽食、飲料、お菓子などの販売あり)で軽く食事しました。誰でも利用できます。ここで、上田さんお友達は東京国立博物館へ「東寺」展を見るためお別れ。こういう参加の仕方でも全く問題ありません。お楽しみいただけたようで良かったです。また、ご一緒しましょう。

黒田記念館

国際子ども図書館
カフェを出て左に進み次を左。上野中学校隣旧寛永寺根本中堂に到着
13:10 現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院本地堂を移築してきたもので、元は現在の大噴水辺りに建っていました。
名所図会を見ますと壮大な建築物で回廊がめぐらされ、立派な唐風門が建っていました。上野戦争時に、その多くが焼失しました。本殿前に名所図会を拡大した説明板があり、当時の様子がわかって面白いです。広々で環境良好の寛永寺幼稚園隣接しています。
修復時にとりはづした鬼瓦の展示、大きい方は旧本坊表門の物、小さい方は根本中堂に乗せられていた物です。
旧本坊は現東京国立博物館敷地にありましたが、上野戦争で焼失。焼失を免れた表門は弾痕跡をつけたまま同博物館東側の輪王寺境内に移築されています。


鬼瓦
言問通りに出ます。この辺りも寛永寺の所領だったのですわね。
13:20 浄名院に突き当ります。
寛文6(1666)年創建妙運和尚が地蔵信仰を得、八万四千体建立の大誓願を立て、以来各地からの地蔵薩像の数は増え続けているそうです。犬養毅のお地蔵菩薩は遭難日5月15日付を刻んでいました。ずらりと並ぶ地蔵菩薩は壮観です。

そのまま進み、左側の谷中霊園に入ります。入ってすぐに迷いましたね。Googlemapアプリの出番です。
五重塔跡に到達。塔そのものはありませんので目印にはなりません。何度来ても迷子です、私。
幸田露伴の「五重塔」のモデルになった塔は天王寺にありました。明和の大火で焼失、寛政3年(1791)再建、震災・戦災をくぐり抜けた塔は昭和32年(1957)放火により焼失。焼失前は總欅造りで関東一の高さ34.18mを誇りました。
13:55ひっそりとした天王寺は日暮里駅近徒歩2分です。元禄13年(1700)幕府公認富くじ興行。目黒不動・湯島天神とならび「江戸の三富」と言われ人気でした。


天王寺五重塔跡(柵の中)
在りし日の五重塔
すぐに日暮里駅がみえます。駅の西側でしょうか、左手は崖です。その中も谷中霊園の続き区画です。
崖にとりついたような階段を行きますと御殿坂に出ます。夕焼けだんだんに続く道です。
彰義隊残党もこの辺りを潰走したのでしょうか。
14:15本行寺(月見寺)が右手にあります。神田、谷中を経て宝永6年(1709)に現在の地に移転。境内には一茶の句碑のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。 景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれました。また太田道灌の物見塚なる石碑も本殿脇にありました。

道灌物見の塚 長い方です
そのまま進み、彰義隊の残党が匿われた経王寺(きょうおうじ)に着きます。
14:25経王寺山門に政府軍の銃撃を受けた弾痕が残っています。
ここで亡くなった方も南千住の円通寺に葬られたのでしょうかしら。


14:30経王寺見学後、、日暮里駅組と千駄木駅組に別れて解散しました。
西郷さんから経王寺まで歩いた訳ですが、幕府の庇護を受けた寛永寺の広大さを感じました。名所図会を見ますと益々、広かったんだなあと!そのまま残っていれば、移動はセグウェイでしょうかね。
上野戦争、起こさずに済んだら?等と妄想してしまいます。
皆様、お疲れ様でした。
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コメント
コメント一覧 (2件)
水野さん 上野の山の散策楽しい一時でした。改めて寛永寺の広大な敷地に感嘆した次第です。いろいろと説明いただき有難うございました。次回も楽しみにしております。 平山
お疲れ様でした。
またご一緒できますように。