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サンティアゴ巡礼の旅日誌より

 

ポルトガルの道巡礼(3)
(アゲダ~アルコス)113km{徒歩101km、メトロ12km}
2017年9月13日~17日
 
イスタンブールで乗り継いだトルコ航空機は昼前にポルトに着陸した。すぐさま、空港始発のメトロに乗った。ポルトにはメトロが6路線あるが、全て郊外では地上を走行し、市中心部で地下に潜っている。市内のカンパニャン駅でCP(ポルトガル国鉄)の列車に乗り、アヴェイロで二両連結のローカル列車に乗り換えた。数人の乗り合わせた客は皆地元の人たちだ。アゲダ駅で列車を降りた。昨夏体調不良で巡礼の旅を切り上げたアゲダに戻ってきた。
昨年泊まった町外れにあるレジデンシアル・クレステを訪れて、併設のアルベルゲ・サント・アントニオ(相部屋)に12ユーロで泊まることにした。
 
 
この7月に開かれたアート・フェスティバルで飾り付けた「傘の浮かぶ道」がまだ見られると知ったので、すぐに町の中心街に足を運んだ。人通りは疎らだったが、色彩鮮やかでメルヘンチックな光景だった。この地域は日差しが強く、それを防ぐため傘を使い出したのが始まりだそうだ。ひょっとすると、アゲダはヤクルト・スワローズ・ファンの隠れ聖地ではないか。
 
 
 
後で気がついたのだが、観光案内所で貰った地図によると、このような壁画が町内17か所、オブジェが10か所にあるそうだ。アゲダはアートによって町おこしを図っているようだ。
帰りにスーパーマーケットに寄って夕食となるような調理済みの食べ物を探したが、これと言ったものは見つからず、バナナ、コーン菓子、ポートワインを買い求めた。
 
 
 
 
 
スイス人のマリアンヌがレストランから出前で取り寄せた料理を分けてくれた。お礼にポートワインを勧めたが、少々飲んだのみ。隣の男性と小生とでがぶがぶ飲んでしまった。子供のころ寿屋(現・サントリー)の赤玉ポートワインを飲んだことを思い出した。本物のポートワイン(ポルトガル語でヴィーニョ・ド・ポルト)は、ポルト特産のアルコール強化ワイン。発酵途中にブランデーを加え酵母の働きを止める。アルコール度数は20度前後で、独特の甘みとコクがある。普段、ワインは小生の口に合わず敬遠するが、ポートワインは別物だ。
マリアンヌは、リスボンから巡礼の道を歩いてきたが、足を痛めてしまい、ここアゲダで切り上げることにした。とても残念がって、来年は戻ってくると言っていた。前年このアゲダで巡礼の旅を断念した小生には彼女の気持ちがよく分かった。
 
 
突然、隣のテーブルの3人の男たちがドリス・デイのケ・セラ・セラを歌い出した。その歌声に何か胸に迫るものがあった。いつの頃からか、事あるごとにケ・セラ・セラ(なるようになる。)の旋律が心に浮かび、何とかなってきた。今回の巡礼の旅に出るにあたり、宿泊地の日程とアルベルゲのリストを準備して、後はケ・セラ・セラ・・・・天候、体力・気力次第という思いだ。
 
 
 
 
 
 
 
5つのアーチを持つローマ橋を通ってマルネル川を渡った。橋はローマ時代起源のものだと言われるが、どうやら14世紀に造られ、その後修復を重ねてきたらしい。ローマ時代にスペイン、ポルトガルにもローマ街道による連絡網が築かれ、その痕跡が今の巡礼路のところどころに残っている。
 
 
アルベルゲリア・ア・ヴェーリャで鉄道線路の踏切に突き当たり、駅舎もあった。駅舎は閉まっていて、廃線ともなっているようだ。駅舎の壁に鉄道開業75周年のアズレージョがあった。アゲダからここまで列車が運行されていたようだ。今はどうなっているか、帰国後SDSでCP時刻表を検索したら、アゲダの次のモーリスカ・ド・ヴォーガが終点で、そこからアルベルゲリア・ア・ヴェーリャまでは廃線となっているようだ。
  
                      
 
 
アルベルガリア・ア・ヴェーリャを過ぎてユーカリ林を歩いているとき、若い女性2人がさっそうと追い抜いていった。アルベルガリア・ア・ノヴァのアルベルゲに午後2時ごろ着いた。小生を追い越した女性のひとりは、チェコ人のヤナ、32歳、もうひとりはスロバキア人のイバナ、28歳で薬剤師。ふたりがどのようにして友達になったのか聞きそびれた。ヤナの夢は、サンティアゴ・デ・コンポステーラからチェコのプラハまでの歩き旅だそうだ。若い人は大きな夢を抱けるのだ。
アルベルゲは親子で営んでいるようで、2食付きで20.5ユーロだった。夕食は10人ほどで野外のテーブルでとった。隣の席にカナダ人のアンリとその妻がいた。彼らの子息がこの春、日本女性と結婚して奈良に住んでいるそうだ。夫妻は日本を訪れて樫原神宮での結婚式に出席した。厳かな神式の結婚式に感動したそうだ。テーブルには数人のフランス人がいて、カナダのフランス語圏のケベックからきたアンリ夫妻と皆、フランス語で話が弾み、小生は蚊帳の外に置かれた。
 

朝食のテーブルで。左からイバナ、ヤナ、アンリ。アンリの赤ら顔は、リスボンから連日晴天下の道を歩いてきたためだ

アルベルガリア・ア・ノヴァからサォン・ジョアン・ダ・マディラまで鉄道線路が敷かれているが、巡礼路は何度も踏切を渡り右側を辿ったり、左側を辿ったり、2,3度線路内を歩いた

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピンエイロ・ダ・ベンポスタ駅。どうも乗降客がいるような気配ではない。鉄道マニアでも鉄道ファンでもなく、「時刻表2万キロ」を愛読した程度だが、鉄道が現役なのかどうかは気にかかる。帰国後、SDSで検索した。2010年にYouTubeにアップされた動画では、ピンエイロ・ダ・ベンポスタ駅の踏切を列車が通過している。だが、奇抜な光景に驚いた。踏切の手前で列車が停車し、人が列車から降りてきて手動で遮断機を下す。列車が踏切を通過して、一旦停車。その人が遮断機を上げて列車に走って戻る。そこで、列車は発車して去っていく。CP時刻表を検索したら、現在、この先のオリヴェイラ・デ・アゼメイスが終点でその先へ走行しているようだ。もしくは、ピンエイロ・ダ・ベンポスタ辺りは廃線とはなっておらず、不定期の貨物列車は運行されているのかもしれない。
 
 

トラヴァンカで線路上の巡礼路はエストラーダ(国道)を潜った。廃線となっているにしては、レールが光っている。

アンセイラ川にローマ橋(セニョール・ダ・ポンテ)が架かっていた。橋の中央に礼拝堂が設けられていた。2003年に修復されたと刻まれていた。それで、白っぽい石の橋となっているのだ

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここら辺りから道路脇にぶどう棚が見られるようになった。サンティアゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路で毎日、見飽きるほどぶどう棚が目に入ってきた。テージョ川周辺の穀倉地帯で見られた広々とした棒仕立てのぶどう畑とは大違いだ。ポルトガル北部のミーニョ地方、スペインのガリシアは雨が多く湿度が高い、おまけに耕地が狭い。このため、耕地を有効に使えるよう、耕地や家屋敷の周り、道の上に、通気性のよい棚仕立てにしてぶどうを栽培しているのだ。
 
 
 
 
 
 
 

オリヴェイラ・デ・アゼメイスの通りにローマ時代の里程標があった

オリヴェイラ・デ・アゼメイスのサォン・ミゲル教会

ウル川に架る中世の橋、右にぶどう棚、先方にエスピゲイロ(高床式穀倉)

ファリアの何度目かの踏切で線路を渡り、丘を上り詰めるとサォン・ジョアン・ダ・マデイラの町に入った。かなり大きな町で、道標や黄色い矢印が見当たらなくなった。ともかく中央広場まで行って、目指すサンタ・カサ・ダ・ミゼルコルディア(聖なる慈悲の家)を尋ねようと思っていた。だが、行き過ぎてしまって、500mほど戻った。ボランティア団体の営む老人ホームのようで、巡礼者のために宿を提供しているのだ。大きな部屋にマットレスが敷き詰められていた。10人ほどの巡礼者が、そこに寝袋を敷いて一夜を明かした。ごちゃごちゃしていたが、熟睡できた。うっかりして寄付金を置いてくるのを忘れた。決まり悪い思いだった。

 
 
 
 
 
  

サンタ・カサ・ミゼルコディア近くのロータリー

サォン・ジョアン・ダ・マディラの沿道に、十字架と水飲み場(飲用禁止と表示してある)左側の輪は井戸から水をくみ上げる装置

アリファナで、青いアズレージョのマトリス教会とぶどう棚

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

マラポスタで、ローマ時代の道が残っていた。最初は90mほどの長さで、古い路面だと気が付かずに通り過ぎてしまった

すぐにまたローマ時代の道が400mほど続いて残されていた、ローマ時代からずっと地表に晒されていたのでどれほどその当時の道が残されているのか

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グリジョのアルベルゲ・S・サルバドールに泊まった。広大な敷地にサォン・サルバドール修道院があったが、その修道院が道を隔てた狭い敷地にアルベルゲを営んでいた。今度は忘れずに10ユーロを募金箱に入れた。
 

右の塀の内側は修道院の敷地、左のあばら家がアルベルゲ

朝6時過ぎにアルベルゲを出た、右の長い塀の内側は広大な修道院の敷地、左は広い墓地で様々な形の墓があった

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                
 
 
7時過ぎに夜が明けた。ファティマの道標に時計回りの渦が描かれていた。時々ファティマを示す標識に同じような模様を見かけた。何を意味しているのか気になっていたが、Webページに一説を見つけた。すなわち、「マリア様が3人の子供たちの前に現れた。マリア様の姿は3人の子供たちにしか見えなかったので、皆に何か印を見せて欲しいと頼んだら大空がぐるぐる回った。そのことにちなんでいる。」
 
 
 
 
 

イタリア人のベニアミノ、ベンと呼んで欲しいと言われた。彼とはこの後何回も行き会った

ローマ街道が現れ、1km内外続いた。昨日のマラポスタのローマ街道より大きな石が敷かれていて、古代のローマ街道を彷彿とさせられた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

石畳を抜けると、道は人ひとりがやっと通れる幅まで狭まった

ポルトの市街地に入った。街路を走るメトロ。巡礼中ポルトガルの統一地方選挙期間に当たったので、至るところで大きな選挙ポスターが掲示されていた。選挙宣伝カーが走り抜ける。向こう側に選挙看板。
 
 
メトロの走行する道を通ってドン・ルイス・一世橋でドウロ川を渡った。エッフェルの弟子の設計で1886年に建造されたものだ。橋の上からドウロ川下流を眺めた。
 
 

橋上を行き来するメトロ

右岸はカイス・ダ・リベイラ地区、世界遺産に登録された歴史地区だ

 

 

 

 

 

 

 

 

左岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア。ワインセラー(ワイナリーとワインの貯蔵庫)が建ち並ぶ。ドウロ川上流域で採れたぶどうはここに運ばれポートワインとなる


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドウロ川を渡って直ぐのところにあるカテドラルを訪れた。もとは要塞として12世紀にたてられ、17~18世紀に改修されたそうだ。観光客で混雑していた。ポルトからの巡礼出発点である。

 
 

カルモ教会のアズレージョによる外壁

観光案内所でアルベルゲの在り処を尋ねた。巡礼の道を進むとポルト市街の外れにあると教えられた。訪ねたが既に満室だった。私営アルベルゲなので予約客も取っているのだ。それからが、宿泊先探しに午後の時間を潰してしまった。いや、時間を潰してはいない、きょろきょろ観光しながら探した。数軒のオスタルを訪れたが、皆満室。
12年前に泊まったユースホステルを最後の頼みにタクシーで訪ねた。ユースホステルから少し離れたところで降ろされた。これが幸いした。若いペアがユースホステルの在り処を探していた。彼らの後にくっ付いて行った。小生は受付で満室だと断られた。それでも、廊下のフロアに寝袋を敷かせて貰いたいと粘った。すると、隣でチェックインの手続きをしていたそのペアが1部屋キャンセルしたので泊まることができると言うではないか。ツインベッドで32.5ユーロ、問題なくOK。それにしても、彼らは何故ツインベッドの2部屋を予約していたのか、小生の窮状を見て譲ってくれたのか、1部屋となってラッキーだったのか、今でも不可解だ。

 
 
カルモ通りに面するカルモ教会(右)とカルメリタス教会(左)。カルメリタス教会の尼僧とカルモ教会の僧侶(男子)とが隣接した建物に住んではならないという規則のために、世界で一番狭い建物(1メートル幅、ふたつの窓を持つ)のひとつで隔てられている。(以上、Webページから引用)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

予めのプランに従い、ポルト市街からメトロに乗って12km先まで行き、モステイロから歩き始めた

一見、何の建物か分からない。上の方にエスコーラ(学校)の文字の看板がある。右の方はATMのようだ

この日は綺麗に敷かれた石畳の両側に綺麗に積まれた石壁の道を通った。石壁の向こう側は畑だったりして、何のために石壁を築いたのか判然としない
 
 
 
 
 

ヴィラリーニョで

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この辺りの巡礼路には車の走行を避ける脇道がある。両方向示す矢印。選挙ポスターのおじさんが、そんなに悩むことはないよと言っているようだ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中世(12世紀)に築かれたザメイロ橋を通ってアヴェ川を渡った。橋のたもとに水車小屋。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

車道から石畳の道に入った

アルコス橋でエステ川を渡った

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日泊まるつもりだったサォン・ペドロ・ラテスまで4km残していた。アルコス橋を渡ると、キンタ・サン・ミゲル(オテゥ…ホテル)の庭で宿泊者がのんびりと休んでいる姿が目に入り、午後4時も過ぎているし、ここアルコスで泊まりたくなった。受付で予約客もあり満室だと告げられた。近くのヴィラ・デ・アルコスを紹介された。部屋に通されて初めて70ユーロと告げられた。マッ、イイカ・・・と諦めた。アルベルゲの二段ベッドでも熟睡できるのだが。